・・・お蓮は不思議に思うよりは、嬉しさに心を躍らせながら、そのまま体も消え入るように、男の頸へすがりついた。しかし眠を破られた男が、うるさそうに何か呟いた声は、意外にも牧野に違いなかった。のみならずお蓮はその刹那に、実際酒臭い牧野の頸へ、しっかり・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・胸から下の肢体は感触を失ったかと思うほどこわばって、その存在を思う事にすら、消え入るばかりの羞恥を覚えた。毛の根は汗ばんだ。その美しい暗緑の瞳は、涙よりももっと輝く分泌物の中に浮き漂った。軽く開いた唇は熱い息気のためにかさかさに乾いた。油汗・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 私の気のせいか、それは、消え入るほどの力弱い声であった。「やけどに、とてもよくきく薬を自分は持っているんだけどな。そのリュックサックの中にはいっているんです。塗ってあげましょうか。」 女は何も答えない。「電気をつけてもいい・・・ 太宰治 「母」
・・・ふたたび、消え入るようにわびを言った。「いいえ。僕のことは、どうでもいいんだけど、」青年は、あれこれ言っているうちに、この一週間、自分の嘗めて来た苦悩をまざまざと思い起し、流石に少し不気嫌になって、「あなたは、これからどうします? 僕の・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・此処に来た当座は耳に馴れぬ風の夜の波音に目が醒めて、遠く切れ/\に消え入る唄の声を侘しがったが馴れれば苦にもならぬ。宿の者も心安くなってみれば商売気離れた親切もあって嬉しい。雨が降って浜へも出られぬ夜は、帳場の茶話に呼ばれて、時には宿泊人届・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・歌の言葉は聞き取れぬが、単調な悲しげな節で消え入るように長く引いて、一ふしが終わると、しばらく黙ってまたゆるやかに歌い出す、これを聞いているとなんだか胸をおさえられるようで急にねえさんの宅へ帰りたくなったから一人で帰った。帰って見るともうそ・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・ 雲の消え入るようにやさしいすき間には、光った月と無数の星とがキラキラと輝いて居る。 あたりはひっそりと鎮って、足跡のない雪の夢のような表面と、愛らしい春の息を吸った空とは、そのなごやかな甘い沈黙のうちで、お互の秘語を交して居るよう・・・ 宮本百合子 「結婚問題に就て考慮する迄」
出典:青空文庫