・・・具の光る、巨大な蜈むかでが、赤黒い雲の如く渦を巻いた真中に、俵藤太が、弓矢を挟んで身構えた暖簾が、ただ、男、女と上へ割って、柳湯、と白抜きのに懸替って、門の目印の柳と共に、枝垂れたようになって、折から森閑と風もない。 人通りも殆ど途絶え・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 家の中も、通りもお正月らしく森閑としていた。寒さはひどかったが、風はなかった。いつもは、のび/\と寝ていられるのだが、清吉は、どうも、今、寝ている気がしなかった。彼は寝衣の上に綿入れを引っかけて外に出た。門松は静かに立っていた。そこに・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・いよいよ森閑として、読者は、思わずこの世のくらしの侘びしさに身ぶるいをする、という様な仕組みになっていた。 同じ扉の音でも、まるっきり違った効果を出す場合がある。これも作者の名は、忘れた。イギリスのブルウストッキングであるということだけ・・・ 太宰治 「音に就いて」
・・・千も二千も色様様の人が居るのに、歌舞伎座は、森閑としていた。そっと階段をおり、外へ出た。巷には灯がついていた。浅草に行きたく思った。浅草に、ひさごやというししの肉を食べさせる安食堂があった。きょうより四年まえに、ぼくが出世をしたならば、きっ・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・三時か四時ごろのカフェーにはまだ吸血鬼の粉黛の香もなく森閑としてどうかするとねずみが出るくらいであった。コンディトライには家庭的な婦人の客が大多数でほがらかににぎやかなソプラノやアルトのさえずりが聞かれた。 国々を旅行する間にもこの習慣・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・公園の入口にはダリアが美しく咲いて森閑とした園内を園丁が掃除していた。子供の時分によく熱病をわずらって、その度に函館産の氷で頭を冷やしたことであったが、あの時のあの氷が、ここのこの泥水の壕の中から切り出されて、そうして何百里の海を越えて遠く・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・曙町へはいると、ちょっと見たところではほとんど何事も起らなかったかのように森閑として、春のように朗らかな日光が門並を照らしている。宅の玄関へはいると妻は箒を持って壁の隅々からこぼれ落ちた壁土を掃除しているところであった。隣の家の前の煉瓦塀は・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・白木の宮に禰宜の鳴らす柏手が、森閑と立つ杉の梢に響いた時、見上げる空から、ぽつりと何やら額に落ちた。饂飩を煮る湯気が障子の破れから、吹いて、白く右へ靡いた頃から、午過ぎは雨かなとも思われた。 雑木林を小半里ほど来たら、怪しい空がとうとう・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・広い寺だから森閑として、人気がない。黒い天井に差す丸行灯の丸い影が、仰向く途端に生きてるように見えた。 立膝をしたまま、左の手で座蒲団を捲って、右を差し込んで見ると、思った所に、ちゃんとあった。あれば安心だから、蒲団をもとのごとく直して・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・しばらくして、その森閑とした大気のどこかしらから人声がきこえて来た。かすかだった人声は次第にたかまり、やがて早足に歩く跫音がおこり、やがてかたまって駈けまわるとどろきになって来た。君たちは、話すことができる! 君たちは話すことができる! そ・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第七巻)」
出典:青空文庫