・・・ところが荼吉尼法は著聞集に、知定院殿が大権坊という奇験の僧によりて修したところ、夢中に狐の生尾を得たり、なんどとある通り、古くから行われていたし、稲荷と荼吉尼は狐によって混雑してしまっていた。文徳実録に見える席田郡の妖巫の、その霊転行して心・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・きのうは何十人の負傷者がこの坂の上をかつがれて通ったとか、きょうは焼け跡へ焼け跡へと歩いて行く人たちが舞い上がる土ぼこりの中に続いたとか、そういう混雑がやや沈まって行ったころに、幾万もの男や女の墓地のような焼け跡から、三つの疑問の死骸が暗い・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・暫時二人は門外の石橋のところに佇立みながら、混雑した往来の光景を眺めた。旧い都が倒れかかって、未だそこここに徳川時代からの遺物も散在しているところは――丁度、熾んに燃えている火と、煙と、人とに満された火事場の雑踏を思い起させる。新東京――こ・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・ 以上の外、火災をのがれた山の手や郊外の町の混雑もたいへんでした。家のくずれかたむいた人は地震のゆれかえしをおそれて、街上へ家財をもち出し、布や板で小屋がけをして寝たり、どのうちへも大てい一ぱい避難者が来て火事場におとらずごたごたする中・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・こんな混雑では、ぶつかるのは、あたりまえのことでございます。なんということも、ございませぬ。令嬢は、通りすぎて行きます。幸福は、まだまだ、おあずけでございます。変化は、背後から、やって来ました。とんとん、博士の脊中を軽く叩いたひとがございま・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・内部はまた、いもを洗うような混雑だ。肘と肘とをぶっつけ合い、互いに隣りの客を牽制し、負けず劣らず大声を挙げて、おういビイルを早く、おういビエルなどと東北訛りの者もあり、喧々囂々、やっと一ぱいのビイルにありつき、ほとんど無我夢中で飲み畢るや否・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・電車は新陳代謝して、ますます混雑を極める。それにもかかわらず、かれは魂を失った人のように、前の美しい顔にのみあくがれ渡っている。 やがてお茶の水に着く。五 この男の勤めている雑誌社は、神田の錦町で、青年社という、正則英語・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・歩かなくても電車や汽車やバスでどこまででも行けるではないかと云われるが、しかしそういう好季節の好天気の休日の交通機関に乗ってゆっくり腰をかけられるチャンスは少ないし、腰かけられたとしても、車内の混雑に起因する肉体的ならびに精神的の苦痛は、目・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・何度繰り返して読んでみても、何を言うつもりなのかほとんどわからないような論文中の一節があれば、それは実はやはり書いた人にもよくわかっていない、条理混雑した欠陥の所在を標示するのが通例である。これと反対に、読んでおのずから胸の透くような箇所が・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・しかしそういう適当な休み場所がまだ出来なかった去年頃まで、自分は友達を待ち合わしたり、あるいは散歩の疲れた足を休めたり、または単に往来の人の混雑を眺めるためには、新橋停車場内の待合所を択ぶがよいと思っていた。 その頃には銀座界隈には、己・・・ 永井荷風 「銀座」
出典:青空文庫