・・・うら若い青年、まだ人の心の邪なことや世のさまのけわしい事など少しも知らず、身に翼のはえている気がして、思いのまま美しい事、高いこと、清いこと、そして夢のようなことばかり考えていた私には、どんなにこれらのことが、まず心を動かしたでしょう。・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・その冷ややかな陰の水際に一人の丸く肥ッた少年が釣りを垂れて深い清い淵の水面を余念なく見ている、その少年を少し隔れて柳の株に腰かけて、一人の旅人、零落と疲労をその衣服と容貌に示し、夢みるごときまなざしをして少年をながめている。小川の水上の柳の・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・風の清いこと寒いこと、月の光の遠いこと空の色の高いこと! 僕はきっと今日は鹿が獲れると思った。『徳さん徳さん今井の叔父さんを起こしてくれ』とたれか家内で呼ぶから僕は帰って見ると、みんな出発に取りかかっていたが叔父さんばかり高いびきで臥て・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・と唱ったが、その声は実に前の声にも増して清い澄んだ声で、断えず鳴る笛吹川の川瀬の音をもしばしは人の耳から逐い払ってしまったほどであった。 これを聞くとかの急ぎ歩で遣って来た男の児はたちまち歩みを遅くしてしまって、声のした方を・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・なるほど酸いも甘いも咬み分けたというような肌合の人には、馬琴の小説は野暮くさいでもありましょうし、また清い水も濁った水も併せて飲むというような大腹中の人には、馬琴の小説はイヤに偏屈で、隅から隅まで尺度を当ててタチモノ庖丁で裁ちきったようなの・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・緑も添い、花も白く咲き出る頃は、いかにも清い秋草の感じが深い。この薫が今は花のさかりである。そう言えば、長く都会に住んで見るほどのもので、町中に来る夏の親しみを覚えないものはなかろうが、夏はわたしも好きで、種々な景物や情趣がわたしの心を楽し・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・彼は清い鋭い山の空気を饑えた肺の底までも呼吸した。 塾で新学年の稽古が始まる日には、高瀬は知らない人達に逢うという心を持って、庭伝いに桜井先生を誘いに行った。早起の先生は時間を待ち切れないで疾くに家を出た。裏庭には奥さんだけ居て、主婦ら・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・よく私に清いという言葉をつけて、『清貧』と私を呼んで呉れる人もあるが、ほんとうの私はそんな冷かなものでは無い。私は自分の歩いた足跡に花を咲かせることも出来る。私は自分の住居を宮殿に変えることも出来る。私は一種の幻術者だ。斯う見えても私は世に・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
・・・それがみんな清い空気と河の広い見晴しとに、不思議に引寄せられているのである。文明の結果で飾られていても、積み上げた石瓦の間にところどころ枯れた木の枝があるばかりで、冷淡に無慈悲に見える町の狭い往来を逃れ出て、沈黙していながら、絶えず動いてい・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・家の前は清い小みぞが音を立てて流れている。狭い村道の向こう側は一面の青田で向こうには徳川以前の小さい城跡の丘が見える。古風な屋根門のすぐわきに大きな楝の木が茂った枝を広げて、日盛りの道に涼しい陰をこしらえていた。通りがかりの・・・ 寺田寅彦 「花物語」
出典:青空文庫