ただ取り止めもつかぬ短夜の物語である。 毎年夏始めに、程近い植物園からこのわたりへかけ、一体の若葉の梢が茂り黒み、情ない空風が遠い街の塵を揚げて森の香の清い此処らまでも吹き込んで来る頃になると、定まったように脳の工合が・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・肉に付着するあらゆる肉の不浄を拭い去って、霊その物の面影を口鼻の間に示せるは朗かにもまた極めて清い。苦しみも、憂いも、恨みも、憤りも――世に忌わしきものの痕なければ土に帰る人とは見えず。 王は厳かなる声にて「何者ぞ」と問う。櫂の手を休め・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・で、私は露語の所謂ストリャッフヌストと云ったような時代……つまりこびり着いて居る思想の血を払って、新たな清い生活に入ろうとする過渡の時代のように今を思う。思想じゃ人生の意義は解らんという結論までにゃ疾くに達しているくせに、まだまだ思想に未練・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・青いそらからかすかなかすかな楽のひびき、光の波、かんばしく清いかおり、すきとおった風のほめことばが丘いちめんにふりそそぎました。 なぜならばすずらんの葉は今はほんとうの柔らかなうすびかりする緑色の草だったのです。 うめばちそうはすな・・・ 宮沢賢治 「虹の絵具皿」
・・・などと平気でそんな毒口をきくような良人との間に、どうして純粋な清い愛があったといえましょう。こういう複雑な問題は、単にああなったことを、いいとか悪いとかというたような、世間並な批評は通用しないでしょう。夫人がこういう思いつめた最後の手段を取・・・ 宮本百合子 「行く可き処に行き着いたのです」
・・・ 只一眼その姿を見てそそられる様な清い愛情の湧く姿も声も神からさずからなかった。 誰れにも似て居ない赤坊を見た時二親なり同胞のものが変な感じにおそわれるのは自然な事である。 生れた児には何のつみもない。只不幸な偶然な出来事に会っ・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・覚えているが、女史はその青年の都会へのあこがれを丁寧に訓戒し、都会生活の醜悪であることを話し、あなたの使命は東京へ出ることでなくて、村に残り、自然の美を理解して新鮮な空気をたのしみながら、自分の周囲に清い社会を作って行くことであると答えられ・・・ 宮本百合子 「今日の文化の諸問題」
・・・谷川の音の太い鈍い調子を破って、どこかで清い鈴の音がする。牝牛の頸に懸けてある鈴であろう。 フランツは雨に濡れるのも知らずに、じいっと考えている。余り不思議なので、夢ではないかとも思って見た。しかしどうも夢ではなさそうである。 暫く・・・ 森鴎外 「木精」
・・・ですが僕はこんなに気楽には見えてもあのように終りまで心にかけて、僕のようなものの行末を案じて下すった奥さまに対して、是非清い勇ましい人物にならなくッてはならないと、始終考えているんです。・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・delicate な印象を与え清い美しさで人を魅しようとする注意も行きわたっている。しかもそこにすべてを裏切るある物の閃きがある。人は密室で本性を現わす無恥な女豚を感じないではいられない。――Kは生ぬるいメフィストを連想させた。彼は自己の醜・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫