・・・ ことにこの水の音をなつかしく聞くことのできるのは、渡し船の中であろう。自分の記憶に誤りがないならば、吾妻橋から新大橋までの間に、もとは五つの渡しがあった。その中で、駒形の渡し、富士見の渡し、安宅の渡しの三つは、しだいに一つずつ、いつと・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・白馬一匹繋ぎあり、たちまち馬子来たり、牽いて石級を降り渡し船に乗らんとす。馬懼れて乗らず。二三の人、船と岸とにあって黙してこれを見る。馬ようやく船に乗りて船、河の中流に出ずれば、灘山の端を離れてさえさえと照る月の光、鮮やかに映りて馬白く人黒・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・宗吾郎は、笠で自分の顔を覆うて、渡し舟に乗る。降りしきる雪は、吹雪のようである。 七つ八つの私は、それを見て涙を流したのであるが、しかし、それは泣き叫ぶ子供に同情したからではなかった。義のために子供を捨てる宗吾郎のつらさを思って、たまら・・・ 太宰治 「父」
・・・中につきて数句を挙ぐれば草霞み水に声なき日暮かな燕啼いて夜蛇を打つ小家かな梨の花月に書読む女あり雨後の月誰そや夜ぶりの脛白き鮓をおす我れ酒かもす隣あり五月雨や水に銭蹈む渡し舟草いきれ人死をると札の立つ秋風・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫