・・・家屋敷まで人手に渡している老父たちの生活は、惨めなものであった。老父は小商いをして小遣いを儲けていた。継母は自分の手しおにかけた耕吉の従妹の十四になるのなど相手に、鬼のように真黒くなって、林檎や葡萄の畠を世話していた。彼女はちょっと非凡なと・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・靴の紐を結び終わった夫に帽子を渡しながら、信子は弱よわしい声を出した。「今日はまだどこへも出られないよ。こちらから見ると顔がまだむくんでいる」「でも……」「でもじゃないよ」「お母さん……」「お姑さんには行ってもらうさ」・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・流れに渡したる掛橋は、小柴の上に黒木を連ねて、おぼつかなげに藤蔓をからみつけたり。橋を渡れば山を切り開きて、わざとならず落しかけたる小滝あり。杣の入るべき方とばかり、わずかに荊棘の露を払うて、ありのままにしつらいたる路を登り行けば、松と楓樹・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・かれこれするうち、自分の向かいにいた二等水兵が、内ポケットから手紙の束を引き出そうとして、その一通を卓の下に落としたが、かれはそれを急に拾ってポケットに押し込んで残りを隣の水兵に渡した。他の者はこれに気がつかなかったらしい、いよいよ読み上げ・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・隊長は犯人を検挙するために、褒美を十円やることを云い渡してあった。密偵は十円に釣られて、犬のように犯人を嗅ぎまわった。そして、十円を貰って嬉しがっている。憲兵は、松本にそういう話を笑いながらしたそうだ。「じや、あの朝鮮人かもしれん。今さ・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・り上等の魚でない、群れ魚ですから獲れる時は重たくて仕方がない、担わなくては持てないほど獲れたりなんぞする上に、これを釣る時には舟の艫の方へ出まして、そうして大きな長い板子や楫なんぞを舟の小縁から小縁へ渡して、それに腰を掛けて、風の吹きさらし・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・青い夕顔に、真魚板に、庖丁と、こうあれに渡したと思わっせれ。ところが、あなた、あれはもう口をフウフウ言わせて、薄く切って見たり、厚く切って見たり。この夕顔はおよそ何分ぐらいに切ったらいいか、そういうことに成るとまるであれには勘考がつかんぞな・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・そしてあわただしげに右の手をずぼんの隠しに入れてありたけの貨幣を掴み出して、それを青年の手に渡した。「さあ、これを取って置け。お前はまだ年が若い。己よりはお前の方がまだこの世に用がありそうだ。」 青年は、貨幣を受け取って「難有う」と・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・と云い渡しました。 家の者は、此知らない土地へ旅立つ為、種々仕度を調えました。スバーの心は、まるで靄に包まれた明方のように涙でしめりました。近頃、次第に募って来た、ぼんやりとした恐しさで、彼女は物の云えない獣のように、父や母につきま・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・まず、ざっと、こんなものだ、と言わぬばかりに、ナルシッサスは、再び、人さし指で気障な頬杖やらかして、満座をきょろと眺め渡した。「うん。だいたい、」長兄は、もったいぶって、「そんなところで、よろしかろう。けれども、――」長兄は、長兄として・・・ 太宰治 「愛と美について」
出典:青空文庫