・・・「おやッ! このトランクは……?」「あッ、あの娘さんのや」 と、赤井もびっくりしたような声を出した。「渡すのを忘れたんだ。君、あの人の名前知ってる?」「いや、知らん。あんたが知らんもん、俺が知る道理がないやろ」「それ・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・『それでは遺言どおりこの百円はお前に渡すから確かに受け取っておくれ』と叔父の出す手をお絹は押しやって『叔父さんわたしは確かに受け取りました吉さんへはわたしからお礼をいいます、どうかそれで吉さんの後を立派に弔うてください、あらためてわ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・軽く礼して、わが渡す外套を受け取り、太くしわがれし声にて、今宮本ぬしの演説ありと言いぬ。耳をそばだつるまでもなく堂をもるるはかれの美わしき声、沈める調なり。堂の闥を押さんとする時何心なく振り向けば十蔵はわが外套を肩にかけ片手にランプを持ちて・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 彼は、税金を渡すと、すごすご役場から出て帰った。 昼飯の時、「今日は頭でも痛いんかいの。」と、おきのは彼の憂鬱に硬ばっている顔色を見て訊ねた。彼は黙って何とも答えなかった。 飯がすんで、二人づれで畠へ行ってから、おきのは、・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・彼は、「お主の賃銀もその話が片づいてから渡すものは渡すそうじゃ、まあ、それまでざいへ去んで休んどって貰えやえゝ。」と云った。「そいつは併し困るんだがなあ。賃銀だけは貰って行かなくちゃ!」 既に月の二十五日だった。暮れの節季には金・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・ 土耳古帽氏が真鍮刀を鼠股引氏に渡すと、氏は直にそれを予に逓与して、わたしはこれは要らない、と云いながら、見つけたものが有るのか、ちょっと歩きぬけて、百姓家の背戸の雑樹籬のところへ行った。籬には蔓草が埒無く纏いついていて、それに黄色い花・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・ 手拭と二銭銅貨を男に渡す。片手には今手拭を取った次手に取った帚をもう持っている。「ありがてえ、昔時からテキパキした奴だったッケ、イヨ嚊大明神。と小声で囃して後でチョイと舌を出す。「シトヲ、馬鹿にするにも程があるよ。 大・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・二、三人の棒頭にピストルを渡すと、すぐ逃亡者を追いかけるように言った。「ばかなことをしたもんだ」 誰だろう? すぐつかまる。そしたらまた犬が喜ぶ! 眼下の線路を玩具のような客車が上りになっているこっちへ上ってくるのが見えた。疲れ・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・月の初めと半ばとの二度に分けて、半月に一円ずつの小遣を渡すのを私の家ではそう呼んでいた。「今月はまだ出さなかったかねえ。」「とうさん、きょうは二日だよ。三月の二日だよ。」 それを聞いて、私は黒いメリンスを巻きつけた兵児帯の間から・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・決闘の結果は予期とは相違していましたが、兎に角わたくしは自分の恋愛を相手に渡すのに、身を屈めて、余儀なくせられて渡すのでは無く、名誉を以て渡そうとしたのだと云うだけの誇を持っています。」「どうぞ聖者の毫光を御尊敬なさると同じお心持で、勝・・・ 太宰治 「女の決闘」
出典:青空文庫