・・・遠くの樹に風が黒く渡る。と、やがて眼近い夾竹桃は深い夜のなかで揺れはじめるのであった。喬はただ凝視っている。――暗のなかに仄白く浮かんだ家の額は、そうした彼の視野のなかで、消えてゆき現われて来、喬は心の裡に定かならぬ想念のまた過ぎてゆくのを・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・地を這い渡る松の間に、乱れ立つ石を削りなして、おのずからなる腰掛けとしたるがところどころに見ゆ。岩を打ち岩に砕けて白く青く押し流るる水は、一叢生うる緑竹の中に入りて、はるかなる岡の前にあらわれぬ。流れに渡したる掛橋は、小柴の上に黒木を連ねて・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・と響き渡る高い調子で鸚鵡は続けざま叫び出したので、政法も木村も私もあっけに取られていますと、駆けこんで来たのが四郎という十五になるこの家の子です。「鸚鵡をくださいって」と、かごを取って去ってしまいました。この四郎さんは私と仲よしで、近い・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・……霧立ち嵐はげしき折々も、山に入りて薪をとり、露深き草を分けて、深山に下り芹を摘み、山河の流れも早き巌瀬に菜をすすぎ、袂しほれて干わぶる思ひは、昔人丸が詠じたる和歌の浦にもしほ垂れつつ世を渡る海士も、かくやと思ひ遣る。さま/″\思ひつづけ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 嗄れた、そこらあたりにひびき渡るような声で喋っていた吉原が、木村の方に向いて、「君はいい口実があるよ。――病気だと云って診断を受けろよ。そうすりゃ、今日、行かなくてもすむじゃないか。」「血でも咯くようにならなけりゃみてくれない・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・になっているところ一体に桑が仕付けてあるその遥に下の方の低いところで、いずれも十三四という女の児が、さすがに辺鄙でも媚き立つ年頃だけに紅いものや青いものが遠くからも見え渡る扮装をして、小籃を片手に、節こそ鄙びてはおれど清らかな高い徹る声で、・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・歳を超えて、日本全国の測量地図を完成した、趙州和尚は、六十歳から參禅修業を始め、二十年を経て漸く大悟徹底し、爾後四十年間、衆生を化度した、釈尊も八十歳までの長い間在世されたればこそ、仏日爾く広大に輝き渡るのであろう、孔子も五十にして天命を知・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・風が来て青麦を渡るのと、谷川の音と、その間には蛙の鳴声も混って、どうかすると二人の話はとぎれとぎれに通ずる。「桜井先生や、広岡先生には、せめて御住宅ぐらいを造って上げたいのが、私共の希望なんですけれど……町のために御苦労願って……」・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・世界が、その働きをぴたりと止めて、急に淋しくおそろしいように成った時、宏い宏い、心に喰い入るような空の下には、唯、物を云わない自然と、こそりともせず坐っている唖の娘とがいるばかりでした――自然は、燦き渡る太陽の光の下に、スバーは、一本の小さ・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・自分たちは、ルビコン河を渡る英雄ではないのです。こんどの君の小説は、面白そうです。四十年の荒野の意識は、流石に、たっぷりしています。君の感興を主として、濶達に書きすすめて下さい。君ほどの作家の小説には、成功も失敗も無いものです。 あの温・・・ 太宰治 「風の便り」
出典:青空文庫