・・・ こう云う言葉を聞いている内に、まだ酒気が消えていない、堀尾一等卒の眼の中には、この温厚な戦友に対する、侮蔑の光が加わって来た。「何だ、命を捨てるくらい?」――彼は内心そう思いながら、うっとり空へ眼をあげた。そうして今夜は人後に落ちず、・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・といって、私を釧路の新聞に伴れていった温厚な老政治家が、ある人に私を紹介した。私はその時ほど烈しく、人の好意から侮蔑を感じたことはなかった。 思想と文学との両分野に跨って起った著明な新らしい運動の声は、食を求めて北へ北へと走っていく私の・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・その風采、高利を借りた覚えがあると、天窓から水を浴びそうなが、思いの外、温厚な柔和な君子で。 店の透いた時は、そこらの小児をつかまえて、「あ、然じゃでの、」などと役人口調で、眼鏡の下に、一杯の皺を寄せて、髯の上を撫で下げ撫で下げ、滑・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 上 大庭真蔵という会社員は東京郊外に住んで京橋区辺の事務所に通っていたが、電車の停留所まで半里以上もあるのを、毎朝欠かさずテクテク歩いて運動にはちょうど可いと言っていた。温厚しい性質だから会社でも受が可かった。・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・君兪は最初は気位の高いところから、町人の腹ッぷくれなんぞ何だという位のことで贋物を真顔で視せたのであるが、元来が人の悪い人でも何でもなく温厚の人なので、欺いたようになったまま済ませて置くことは出来ぬと思った。そこで門下の士を遣って、九如に告・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・私から見ると、いずれも十六七くらいにしか見えない温厚な少年でありましたが、それでもやはり廿を過ぎて居られるのでしょうね。どうも、此頃、人の年齢のほどが判らなくなってしまいました。十五の人も三十の人も四十の人も、また或は五十の人も、同じことに・・・ 太宰治 「心の王者」
・・・それはとにかく、この老人はこの煙管と灰吹のおかげで、ついぞ家族を殴打したこともなく、また他の器物を打毀すこともなく温厚篤実な有徳の紳士として生涯を終ったようである。ところが今の巻煙草では灰皿を叩いても手ごたえが弱く、紙の吸口を噛んでみても歯・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・第三号は第一号のように意地の悪い顔であったがこの第四号は第二号のように温厚らしくできた。二重人格者の甲乙の性格が交代で現われるような気がした。 今度は横顔でもやってみようと思って鏡を二つ出して真横から輪郭を写してみたら実に意外な顔であっ・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・それは温厚篤実をもって聞こえた人で世間ではだれ一人非難するもののないほどまじめな親切な老人であって、そうして朝晩に一度ずつ神棚の前に礼拝し、はるかに皇城の空を伏しおがまないと気の済まない人であった。それが年の始めのいちばんだいじな元旦の朝と・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・方でも、勢いがあって画家の意志に対する理想を示す事もできますし、曲り具合が美に対する理想をあらわす事もできますし、または明暸で太い細いの関係が明かで知的な意味も含んでおりましょうし、あるいは婉約の情、温厚な感を蓄える事もありましょう。こうな・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
出典:青空文庫