・・・ と何か言いたそうに、膝で、もじもじして、平吉の額をぬすみ見る女房の様は、湯船へ横飛びにざぶんと入る、あの見世物の婦らしい。これも平吉に買われたために、姿まで変ったのであろう。 坐り直って、「あなたえ。」 と怨めしそうな、情・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ などという、いわんや巌に滴るのか、湯槽へ落つるのか、湯気の凝ったのか、湯女歌の相間々々に、ぱちゃんぱちゃんと響きまするにおいてをや。 十四 これへ何と、前触のあった百万遍を持込みましたろうではありません・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・広いという程でないけれど、澄み切った礦泉が湯槽に溢れている。足の爪尖まで透き通って見ることが出来る。無限に湧き出ている礦泉は、自然力の不思議ということを思わせる。常に折よく、他に誰も入っていない時が多かった。独り眼を閉じて、何を考えるともな・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・いつもの通り晩に一口飲んで、いい機嫌になって鼻唄か何かで湯へ出かけると、じき湯屋の上さんが飛んで来て、お前さんとこの阿父さんがこれこれだと言うから、びっくらして行って見ると、阿父さんは湯槽に捉まったままもう冷たくなってたのさ。やっぱり卒中で・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・小柄で、痩せて、貧弱な裸を誰にも見られずに済んだと、うれしかった。湯槽に浸ると、びっくりするほど冷たかった。その温泉は鉱泉を温める仕掛けになっているのだが、たぶん風呂番が火をいれるのをうっかりしているのか、それとも誰かが水をうめすぎたのであ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・淀で見たジャンパーの男が湯槽に浸っているではないか。やあと寄って行くと、向うでも気づいて、よう、来ましたね、小倉へ……と起そうとしたその背中を見た途端、寺田は思わず眼を瞠った。女の肌のように白い背中には、一という字の刺青が施されているのだ。・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・その日私は湯槽の上にかかっているペンキの風景画を見ながら「温泉のつもりなんだな」という小さい発見をして微笑まされました。湯は温泉でそのうえ電気浴という仕掛がしてあります。ひっそりした昼の湯槽には若い衆が二人入っていました。私がその中に混って・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ と云って、出て行った。 長い欧州航路 監獄に廻わってから、何が一番気持ちがよかったかときかれたら、俺は六十日目に始めてシャボンを使ってお湯に入ったことだと云おう。 湯槽は小じんまりとしたコンクリートで出来て・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・それが銭湯屋の湯槽のなかである。僕が風呂の流し場に足を踏みいれたとたんに、やあ、と大声をあげたものがいた。ひるすぎの風呂には他のひとの影がなかった。青扇がひとり湯槽につかっていたのである。僕はあわててしまい、あがり湯のカランのまえにしゃがん・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・――無理矢理、自分に言いきかせながら、ひろい湯槽をかるく泳ぎまわった。 湯槽から這い出て、窓をひらき、うねうね曲って流れている白い谷川を見おろした。 私の背中に、ひやと手を置く。裸身のKが立っている。「鶺鴒。」Kは、谷川の岸の岩・・・ 太宰治 「秋風記」
出典:青空文庫