・・・とにかく、銭湯まで一走り。湯槽に、からだを沈ませて、ゆっくり考えてみると、不愉快になって来た。どうにも、むかむかするのである。私が、おとなしく昼寝をしていて、なんにもしないのに、蜂が一匹、飛んで来て、私の頬を刺して、行った。そんな感じだ。全・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・から出てしまったのであるが、宿へ帰って、少しずつ酔のさめるにつれ、先刻の私の間抜けとも阿呆らしいともなんとも言いようのない狂態に対する羞恥と悔恨の念で消えもいりたい思いをした。湯槽にからだを沈ませて、ぱちゃぱちゃと湯をはねかえらせて見ても、・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・とたんに、さっと浪がひいて、私はただ薄暗い湯槽の隅で、じゃぼじゃぼお湯を掻きまわして動いている一個の裸形の男に過ぎなくなりました。 まことにつまらない思いで、湯槽から這い上って、足の裏の垢など、落して銭湯の他の客たちの配給の話などに耳を・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・富籤が当って、一家狂喜している様を、あるじ、あさましがり、何ほどのこともないさ、たかが千両、どれ銭湯へでも行って、のんびりして来ようか、と言い澄まして、銭湯の、湯槽にひたって、ふと気がつくと、足袋をはいていた。まさしく、私もその類であった。・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ 浴場は、つい最近新築されたものらしく、よごれが無く、純白のタイルが張られて明るく、日光が充満していて、清楚の感じである。湯槽は割に小さく、三坪くらいのものである。浴客が、五人いた。私は湯槽にからだを滑り込ませて、ぬるいのに驚いた。水と・・・ 太宰治 「美少女」
・・・ひっそり湯槽にひたっていると、苦痛も、屈辱も、焦躁も、すべて薄ぼんやり霞んでいって、白痴のようにぽかんとするのだ。なんだか、恥ずかしい身の上になっていながら、それでもばかみたいに、こんなにうっとりしているということは、これは、あたしの敗北か・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・そして柔らかく温かに湿った湯気の中に動いている人の顔にも、鏡の前に裸で立ちはだかって頬を膨らしてみたり腹を撫でてみたりしている人の顔にも、湯槽の水面に浮んでいるデモクラチックな顔にも、美醜老若の別なく、一様に淡く寛舒の表情が浮んでいる。・・・ 寺田寅彦 「電車と風呂」
・・・ 銭湯の湯船の中で見る顔には帝国主義もなければ社会主義もない。 もし東京市民が申し合せをして私宅の風呂をことごとく撤廃し、大臣でも職工でも皆同じ大浴場の湯気にうだるようにしたら、存外六ヶしい世の中の色々の大問題がヤスヤス解決される端・・・ 寺田寅彦 「電車と風呂」
・・・それにしてはあまりに貧弱な露店のような台ではあるが、しかし熱海の間歇泉から噴出する熱湯は方尺にも足りない穴から一昼夜わずかに二回しかも毎回数十分出るだけであれだけの温泉宿の湯槽を満たしている事を考えればこれも不思議ではないかもしれない。ここ・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・と豆腐屋の圭さんが湯槽のなかで、ざぶざぶやりながら聞く。「何に利くかなあ。分析表を見ると、何にでも利くようだ。――君そんなに、臍ばかりざぶざぶ洗ったって、出臍は癒らないぜ」「純透明だね」と出臍の先生は、両手に温泉を掬んで、口へ入れて・・・ 夏目漱石 「二百十日」
出典:青空文庫