・・・路が偃松の中へはいると、歩くたびに湿っぽい鈍い重い音ががさりがさりとする。ふいにギャアという声がした。おやと思うと案内者が「雷鳥です」と言った。形は見えない。ただやみの中から鋭い声をきいただけである。人をのろうのかもしれない。静かな、恐れを・・・ 芥川竜之介 「槍が岳に登った記」
・・・ びしゃびしゃ……水だらけの湿っぽい井戸端を、草履か、跣足か、沈んで踏んで、陰気に手水鉢の柱に縋って、そこで息を吐く、肩を一つ揺ったが、敷石の上へ、蹌踉々々。 口を開いて、唇赤く、パッと蝋の火を吸った形の、正面の鰐口の下へ、髯のもじ・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・日光の射さない、湿っぽい木蔭に、霧にぬれている姿は、道ばたの石の間から、伸び出て咲いている雪のような梅鉢草の花と共に、何となく深山の情趣を漂わせます。もとより、これを味うには、あまりに稀品とすべきでありましょう。・・・ 小川未明 「果物の幻想」
・・・風通しの良い部屋とはどこをもってそう言うのか、四方閉め切ったその部屋のどこにも風の通う隙間はなく、湿っぽい空気が重く澱んでいた。私は大気療法をしろと言った医者の言葉を想いだし、胸の肉の下がにわかにチクチク痛んで来た、と思った。 まず廊下・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 湿っぽい夜更けの風の気持好く吹いて来る暗い濠端を、客の少い電車が、はやい速力で駛った。生存が出来なくなるぞ! 斯う云ったKの顔、警部の顔――併し実際それがそれ程大したことなんだろうか。「……が、子供等までも自分の巻添えにするという・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 四 何故、憲兵隊へつれて来られたか、その理由が分らずに、彼は、湿っぽい、地下室の廊下を通って帰るように云われた。彼は自分が馬鹿にせられたような気がして腹立たしかった。廊下の一つの扉は、彼が外へ出かけに開いていた。・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 地下八百尺の坑道を占領している湿っぽい闇は、あらゆる光を吸い尽した。電燈から五六歩離れると、もう、全く、何物も見分けられない。土と、かびの臭いに満ちた空気の流動がかすかに分る。鉱車は、地底に這っている二本のレールを伝って、きし/\軋り・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・昭和九年九月二十九日の早朝新宿駅中央線プラットフォームへ行って汽車を待っていると、湿っぽい朝風が薄い霧を含んでうそ寒く、行先の天気が気遣われたが、塩尻まで来るととうとう小雨になった。松本から島々までの電車でも時々降るかと思うとまた霽れたりし・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・いつもならば夕凪の蒸暑く重苦しい時刻であるが、今夜は妙に湿っぽい冷たい風が、一しきり二しきり堤下の桑畑から渦巻いては、暗い床の間の掛物をあおる。草も木も軒の風鈴も目に見えぬ魂が入って動くように思われる。 浜辺に焚火をしているのが見える。・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・降雨のあとに湿っぽい雪がたくさん降って、それが樹冠にへばりついてその重量でへし折られたそうである。こういう雪の山路に行き暮れて満山の雪折れの音を聞くということは、想像するだけでも寒いようである。 ホテルの三階のヴェランダで見ていると、庭・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
出典:青空文庫