・・・「俺ははじめあの男に対する好意に溢れていた。それで窓の話などを持ち出して話し合う気になったのだ。それだのに今自分にあの男を自分の欲望の傀儡にしようと思っていたような気がしてならないのは何故だろう。自分は自分の愛するものは他人も愛するにち・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 必死の、鋭い、号泣と叫喚が同時に、老人の全身から溢れた。それは、圧迫せられた意気の揚らない老人が発する声とはまるで反対な、力のある、反抗的な声だった。彼は「何をするのだ! 俺がどうして斬られるようなことをしたんだ!」と、叫んでいるよう・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・途端に罪の無い笑は二人の面に溢れて、そして娘の歩は少し疾くなり、源三の歩は大に遅くなった。で、やがて娘は路――路といっても人の足の踏む分だけを残して両方からは小草が埋めている糸筋ほどの路へ出て、その狭い路を源三と一緒に仲好く肩を駢べて去った・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ お君は涙が一杯に溢れてくるのを感じながら、ジッとこらえてうなずいて見せた。――赤ん坊は何にも知らずに、くたびれた手足をバタ/\させながら、あーあ、あーあ、あ、あ……あと声を立てゝいた。「うまい乳を一杯のませて、ウンと丈夫に育てゝく・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・それを漬ける手伝いしていると、水道の栓から滝のように迸り出る水が流し許に溢れて、庭口の方まで流れて行った。おげんは冷たい水に手を浸して、じゃぶじゃぶとかき廻していた。 看護婦は驚いたように来て見て、大急ぎで水道の栓を止めた。「小山さ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・男はしっかりして危げがなく、気力が溢れて人を凌いで行く。女はすらりとして、内々少し太り掛けていると云う風の体附きである。まるで娘のように見える。手なんぞは極小くて、どうしてあれで大金を払い出すことが出来るだろうと怪まれる。一体金と云う概念に・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・頭の中にいっぱいにたまっていたものが大河の堤を決したような勢いで溢れ出した。『物理年鑑』に出した論文だけでも四つでその外に学位論文をも書いた。いずれも立派なものであるが、その中の一つが相対論の元祖と称せられる「運動せる物体の電気力学」であっ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ゾラの小説にある、無政府主義者が鉱山のシャフトの排水樋を夜窃に鋸でゴシゴシ切っておく、水がドンドン坑内に溢れ入って、立坑といわず横坑といわず廃坑といわず知らぬ間に水が廻って、廻り切ったと思うと、俄然鉱山の敷地が陥落をはじめて、建物も人も恐ろ・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・iasme の根本の力を私に授けてくれたものは、仏蘭西人が Sarah Bernhardt に対し伊太利亜人が Eleonora Duse に対するように、坂東美津江や常磐津金蔵を崇拝した当時の若衆の溢れ漲る熱情の感化に外ならない。哥沢節を・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのくらい時間と労力を費さなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙が溢れていると思うと答えた。馬鹿律義なものに・・・ 夏目漱石 「子規の画」
出典:青空文庫