・・・ その後からは、彼の生まれた家の後にある、だだっ広い胡麻畑が、辷るように流れて来た。さびしい花が日の暮を待つように咲いている、真夏の胡麻畑である。何小二はその胡麻の中に立っている、自分や兄弟たちの姿を探して見た。が、そこに人らしいものの・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・と、奴は顱巻の輪を大きく腕いっぱいに占める真似して、「いきなり艫へ飛んで出ると、船が波の上へ橋にかかって、雨で辷るというもんだ。 どッこいな、と腰を極めたが、ずッしりと手答えして、槻の大木根こそぎにしたほどな大い艪の奴、のッしりと掻・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・雨続きだし、石段が辷るだの、お前さんたち、蛇が可恐いのといって、失礼した。――今夜も心ばかりお鳥居の下まで行った――毎朝拍手は打つが、まだお山へ上らぬ。あの高い森の上に、千木のお屋根が拝される……ここの鎮守様の思召しに相違ない。――五月雨の・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・雪見を喜ぶ都会人でも、あの屋根を辷る、軒しずれの雪の音は、凄じいのを知って驚く……春の雨だが、ざんざ降りの、夜ふけの忍駒だったから、かぶさった雪の、その落ちる、雪のその音か、と吃驚したが、隣の間から、小浜屋の主婦が襖をドシンと打ったのが、古・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・中にも、随分気の確な女、むずかしく謂えば意志が強いという質で、泣かないが蒼くなる風だったそうだから、辛抱はするようなものの、手元が詰るに従うて謂うまじき無心の一つもいうようになると、さあ鰌は遁る、鰻は辷る、お玉杓子は吃驚する。 河岸は不・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 雨も晴れたり、ちょうど石原も辷るだろう。母様はああおっしゃるけれど、わざとあの猿にぶつかって、また川へ落ちてみようかしら。そうすりゃまた引上げて下さるだろう。見たいな! 羽の生えたうつくしい姉さん。だけれども、まあ、可い。母様がいらっ・・・ 泉鏡花 「化鳥」
・・・ 大人なら知らず、円くて辷るにせい、小児が三人や五人ではちょっと動かぬ。そいつだが、婦人が、あの児を連れて、すっと通ると、むくりと脈を打ったように見えて、ころころと芝の上を斜違いに転がり出した。か、何か、哄と吶喊を上げて、小児が皆そ・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・その掛茶屋は、松と薄で取廻し、大根畠を小高く見せた周囲五町ばかりの大池の汀になっていて、緋鯉の影、真鯉の姿も小波の立つ中に美しく、こぼれ松葉の一筋二筋辷るように水面を吹かれて渡るのも風情であるから、判事は最初、杖をここに留めて憩ったのである・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 杖の柄で掻寄せようとするが、辷る。――がさがさと遣っていると、目の下の枝折戸から――こんな処に出入口があったかと思う――葎戸の扉を明けて、円々と肥った、でっぷり漢が仰向いて出た。きびらの洗いざらし、漆紋の兀げたのを被たが、肥って大いか・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・おなじ蒔絵の台を離して、轅をそのままに、後から押すと、少し軋んで毛氈の上を辷る。それが咲乱れた桜の枝を伝うようで、また、紅の霞の浪を漕ぐような。……そして、少しその軋む音は、幽に、キリリ、と一種の微妙なる音楽であった。仲よしの小鳥が嘴を接す・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
出典:青空文庫