・・・ 常子も恐らくはこの例に洩れず、馬の脚などになった男を御亭主に持ってはいないであろう。――半三郎はこう考えるたびに、どうしても彼の脚だけは隠さなければならぬと決心した。和服を廃したのもそのためである。長靴をはいたのもそのためである。浴室の窓・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・「政治上の差障りさえなければ、僕も喜んで話しますが――万一秘密の洩れた事が、山県公にでも知れて見給え。それこそ僕一人の迷惑ではありませんからね。」 老紳士は考え考え、徐にこう云った。それから鼻眼鏡の位置を変えて、本間さんの顔を探るよ・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・いささかでも監督に対する父の理解を補おうとする言葉が彼の口から漏れると、父は彼に向かって悪意をさえ持ちかねないけんまくを示したからだ。彼は単に、農場の事務が今日までどんな工合に運ばれていたかを理解しようとだけ勉めた。彼は五年近く父の心に背い・・・ 有島武郎 「親子」
・・・仁右衛門の淋しい小屋からはそれでもやがて白い炊煙がかすかに漏れはじめた。屋根からともなく囲いからともなく湯気のように漏れた。 朝食をすますと夫婦は十年も前から住み馴れているように、平気な顔で畑に出かけて行った。二人は仕事の手配もきめずに・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
「釣なんというものはさぞ退屈なものだろうと、わたしは思うよ。」こう云ったのはお嬢さんである。大抵お嬢さんなんというものは、釣のことなんぞは余り知らない。このお嬢さんもその数には漏れないのである。「退屈なら、わたししはしないわ。」こう・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・ やがて、自分のを並べ果てて、対手の陣も敷き終る折から、異香ほのぼのとして天上の梅一輪、遠くここに薫るかと、遥に樹の間を洩れ来る気勢。 円形の池を大廻りに、翠の水面に小波立って、二房三房、ゆらゆらと藤の浪、倒に汀に映ると見たのが、次・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 乏しい様子が、燐寸ばかりも、等閑になし得ない道理は解めるが、焚残りの軸を何にしよう…… 蓋し、この年配ごろの人数には漏れない、判官贔屓が、その古跡を、取散らすまい、犯すまいとしたのであった――「この松の事だろうか……」 ―・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・僕の母などもその一人に漏れない。民子はその後時折僕の書室へやってくるけれど、よほど人目を計らって気ぼねを折ってくる様な風で、いつきても少しも落着かない。先に僕に厭味を云われたから仕方なしにくるかとも思われたが、それは間違っていた。僕等二人の・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・と郷人の蔭口するのを洩れ聞いて発憤して益々力学したという説がある。左に右く天禀の才能に加えて力学衆に超え、早くから頭角を出した。万延元年の生れというは大学に入る時の年齢が足りないために戸籍を作り更えたので実は文久二年であるそうだ。「蛙の説」・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 雲間から洩れた月の光がさびしく、波の上を照していました。どちらを見ても限りない、物凄い波がうねうねと動いているのであります。 なんという淋しい景色だろうと人魚は思いました。自分達は、人間とあまり姿は変っていない。魚や、また底深い海・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
出典:青空文庫