・・・然し、私には、如何にも強そうなその体格と、肩を怒らして大声に話す漢語交りの物云いとで、立派な大人のように思われた。「先生、何の御用で御座います。」「怪しからん、庭に狐が居る、乃公が弓を引いた響に、崖の熊笹の中から驚いて飛出した。あの・・・ 永井荷風 「狐」
・・・の墓碑の石摺の写真を見せて、こりゃ何だい君、英語の漢語だね、僕には読めないといった。やがて先生は会社へ出て行った。これから吾輩は例の通り「スタンダード」新聞を読むのだ。西洋の新聞は実にでがある。始からしまいまで残らず読めば五六時間はかかるだ・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・また蕪村が俳句の中に漢語を取り入れた如く、外国語の語法でも日本化することができるかも知れない。ただ、その消化如何にあるのである。 西田幾多郎 「国語の自在性」
・・・近来教育の進歩に随て言葉の数も増加し、在昔学者社会に限りて用いたる漢語が今は俗間普通の通語と為りしもの多き中にも、我輩の耳障なるは子宮の文字なり。従前婦人病と言えば唯、漠然血の道とのみ称し、其事の詳なるは唯医師の言を聞くのみにして、素人の間・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・多くの人は蕪村が漢語を用うるをもってその唯一の特色となし、しかもその唯一の特色が何故に尊ぶべきかを知らず、いわんや漢語以外に幾多の特色あることを知る者ほとんどこれなきに至りては、彼らが蕪村を尊ぶゆえんを解するに苦しむなり。余はここにおいて卑・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 日本の文脈ということについて極端にさかのぼってだけ考える人々の間には、漢語で今日通用されている種々の名詞や動詞を、やまとことばというものに翻訳し、所謂原体にかえした云いかたで使わせようという動きもある。果して、現実の可能の多い方法であ・・・ 宮本百合子 「今日の文章」
・・・その若衆のしらじらしい、どうしても本の読めそうにない態度が、書見と云う和製の漢語にひどく好く適合していたが、この滑稽を舞台の外で、今繰り返して見せられたように、僕は思ったのである。 そのうち僕はこう云う事に気が附いた。しらじらしいのは依・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・信仰のない私には、どうも聞き慣れぬ漢語や、新しい詩人の用いるような新しい手爾遠波が耳障になってならない。それに私を苦めることが、秋水のかたり物に劣らぬのは、婆あさんの三味線である。この伴奏は、幸にして無頓著な聴官を有している私の耳をさえ、緩・・・ 森鴎外 「余興」
・・・英語の字引きをひいて mustmustなどとあるのをおもしろがっていた年ごろに、もし漢語を同じように写音文字にすれば、どころではなくから、否…と並べなくてはならないのだと知ったならば、よほど漢字に対する考え方が違っていたろうと思う。そこには・・・ 和辻哲郎 「露伴先生の思い出」
出典:青空文庫