・・・ もしあの時空腹のまま、畢波羅樹下に坐っていられたら、第六天の魔王波旬は、三人の魔女なぞを遣すよりも、六牙象王の味噌漬けだの、天竜八部の粕漬けだの、天竺の珍味を降らせたかも知らぬ。もっとも食足れば淫を思うのは、我々凡夫の慣いじゃから、乳糜を・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・その代り使いから帰ると食べすぎるというので、香の物は恐しくまずく漬けてある。香の物がまずいと、お粥も食べすぎないだろうという心の配り方です。しかし、これはその家だけの習慣ではなく、あとであちこち奉公してみて判ったのだが、これは船場一体のしき・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・鮨でも漬けたように船に詰込れて君士但丁堡へ送付られるまでは、露西亜の事もバルガリヤの事も唯噂にも聞いたことなく、唯行けと云われたから来たのだ。若しも厭の何のと云おうものなら、笞の憂目を見るは愚かなこと、いずれかのパシャのピストルの弾を喰おう・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・七十を越した、兄の祖母で、勝子の曽祖母にあたるお祖母さんが、勝子を連れて川へ茶碗を漬けに行った。その川というのが急な川で、狭かったが底はかなり深かった。お祖母さんは、いつでも兄達が捨てておけというのに、姉が留守だったりすると、勝子などを抱き・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ 穉い堯は捕鼠器に入った鼠を川に漬けに行った。透明な水のなかで鼠は左右に金網を伝い、それは空気のなかでのように見えた。やがて鼠は網目の一つへ鼻を突っ込んだまま動かなくなった。白い泡が鼠の口から最後に泛んだ。…… 堯は五六年前は、自分・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・それから水に漬けてある豆だとか慈姑だとか。 またそこの家の美しいのは夜だった。寺町通はいったいに賑かな通りで――と言って感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが――飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。それがどうしたわけかその店頭の・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・についぞこれまで覚えのない口舌法を実施し今あらためてお夏が好いたらしく土地を離れて恋風の福よしからお名ざしなればと口をかけさせオヤと言わせる座敷の数も三日と続けばお夏はサルもの捨てた客でもあるまいと湯漬けかッこむよりも早い札附き、男ひとりが・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・夏らしい日あたりや、影や、時の物の茄子でも漬けて在院中の慰みとするに好いような沢山な円い小石がその川岸にあった。あの小山の家の方で、墓参りより外にめったに屋外に出たことのないようなおげんに取っては、その川岸は胸一ぱいに好い空気を呼吸すること・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・その虫を踏み潰して、緑色に流れる血から糸を取り、酢に漬け、引き延ばし、乾し固め、それで魚を釣ったことを思出した。彼は又、生きた蛙を捕えて、皮を剥ぎ、逆さに棒に差し、蛙の肉の一片に紙を添えて餌をさがしに来る蜂に与え、そんなことをして蜂の巣の在・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・擦っては時々、手拭を温泉に漬けて、充分水を含ませる。含ませるたんびに、碌さんの顔へ、汗と膏と垢と温泉の交ったものが十五六滴ずつ飛んで来る。「こいつは降参だ。ちょっと失敬して、流しの方へ出るよ」と碌さんは湯槽を飛び出した。飛び出しはしたも・・・ 夏目漱石 「二百十日」
出典:青空文庫