・・・……顔の周囲を巻いている髪の毛が、先っきから流れる水に漬けた様にざわざわと動いている。髪の毛ではない無数の蛇の舌が断間なく震動して五寸の円の輪を揺り廻るので、銀地に絹糸の様に細い炎が、見えたり隠れたり、隠れたり見えたり、渦を巻いたり、波を立・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・しかし主命ですから反抗する訳にも行きませんので、料理人に命じて秋刀魚の細い骨を毛抜で一本一本抜かして、それを味淋か何かに漬けたのを、ほどよく焼いて、主人と客とに勧めました。ところが食う方は腹も減っていず、また馬鹿丁寧な料理方で秋刀魚の味を失・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・湧水がないので、あのつつみへ漬けた。氷がまだどての陰には浮いているからちょうど摂氏零度ぐらいだろう。十二月にどてのひびを埋めてから水は六分目までたまっていた。今年こそきっといいのだ。あんなひどい旱魃が二年続いたことさえいままでの気象の統計に・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・今夜一晩油に漬けておいてみろ。それがいちばんいいという話だ」といいました。お母さんはびっくりして、 「まあ、ご飯のしたくを忘れていた。なんにもこさえてない。一昨日のすずらんの実と今朝の角パンだけをたべましょうか」と言いました。 「う・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・ぼくのおかあさんは樽へ二っつ漬けたよ。」と言いました。「葡萄とりにおらも連れでがないが。」二年生の承吉も言いました。「わがないぢゃ。うなどさ教えるやないぢゃ。おら去年な新しいどご見つけだぢゃ。」 みんなは学校の済むのが待ち遠しか・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・チュウリップ酒で漬けた瓶詰です。しかし一体ひばりはどこまで逃げたでしょう。どこまで逃げて行ったのかしら。自分で斯んな光の波を起しておいてあとはどこかへ逃げるとは気取ってやがる。あんまり気取ってやがる、畜生。」「まったくそうです。こら、ひ・・・ 宮沢賢治 「チュウリップの幻術」
・・・雪の中に一晩漬けられた。 さて大学生諸君、その晩空はよく晴れて、金牛宮もきらめき出し、二十四日の銀の角、つめたく光る弦月が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそそぎかけ、そのつめたい白い雪の中、戦場の墓地のように積みあげられた雪の底に・・・ 宮沢賢治 「フランドン農学校の豚」
・・・ぼくはもう皮を十一枚あすこへ漬けて置いたし、一かま分の木はもうそこにできている。こんやは新らしいポラーノの広場の開場式だ。」「それでは酒を呑まずに水を呑むぅとやるか。」その年よりが云いました。 みんなはどっとわらいました。「よし・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・けれどもおまえが呑んでもとの通りになってから、おれたちをみんな水に漬けて、よくもんでもらいたい。それから丸薬をのめばきっとみんなもとへ戻る。」「そうか。よし、引き受けた。おれはきっとおまえたちをみんなもとのようにしてやるからな。丸薬とい・・・ 宮沢賢治 「山男の四月」
・・・一人の人間の髪の毛をつかんで、ずっぷり水へ漬け、息絶えなんとすると、外気へ引きずり出して空気を吸わせ、いくらか生気をとりもどして動きだすと見るや、たちまち、また髪を掴んで水へもぐらせる、拷問そっくりの生活の思いをさせた。 一九三二年の春・・・ 宮本百合子 「ある回想から」
出典:青空文庫