・・・ 学者の中には、二つの国語の間の少数な語彙の近似から、大胆に二つのものの因果関係を帰納せんとする人もあるようであり、また一方においてあまりに細心で潔癖なために、暗合の悪戯に欺かれる事を恐れてこの種の比較に面迫することを回避する人もあるか・・・ 寺田寅彦 「比較言語学における統計的研究法の可能性について」
・・・蕪村の天材は咳唾ことごとく珠を成したるか、蕪村は一種の潔癖ありていやしくも心に満たざる句はこれを口にせざりしか、そもそも悪句は埋没して佳句のみ残りたるか。余は三者皆原因の一部を分有したりと思う。俳句における蕪村の技倆は俳句界を横絶せり、つい・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・私はあなたより潔癖よ。あなたのところへ自分から行ったのよ。あなたと一緒になるために――あなたとだけ一緒になるために。それだのに、あなたは私を繩でしばりつけたがっている――」 自分との同棲者でなかった間、ドミトリーはインガの才能を理解して・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
・・・そういう一見はっきりした潔癖性、この人生における座の構えによって、その構えを可能にしている土台のある限り、志賀氏のリアリズムは「万暦赤絵」の境地に安坐するであろう。そう思ったのであった。「強者連盟」の梅雄の生活感情を読み、「新しき塩」で・・・ 宮本百合子 「落ちたままのネジ」
・・・キュリー夫人が科学の客観的な真理との関係で、自分の箇人的な勉強などを伝説化すまいとした潔癖は気品ある態度であり、科学に献身した者らしい無私を語っている。けれども、人間の歴史の嶮しい波の中での女の生きる姿という広さにおいてみれば、彼女が少女時・・・ 宮本百合子 「寒の梅」
・・・母が、子供たちをおゆきのところへ行かせたがらなかった母らしい潔癖と偏見の意味もわかった。もうその頃は、おゆきは、別のところに引越して、養子の世話になっていた。 更に何年かたったとき、何かの雑誌で「ねぶか」という落語をよんだ。落語をこのむ・・・ 宮本百合子 「菊人形」
・・・嘘偽や偽善を身につけまいとする潔癖も、文化の本質にある美しい感覚の宝である。常に事物の本質をわかって行きたいと思う心持こそ、文化の核心の精髄であるとともに、人間の人間たる所以であると思う。 私たちが謙遜な心で今日の生活の諸相を省みたとき・・・ 宮本百合子 「今日の生活と文化の問題」
・・・この極端な潔癖の結果として随分可笑しい事が生じた。それはあの印行本二冊のどこにもファウストの作者ウォルフガング・ギョオテの名が出ていぬと云う事実である。これはある人が注意してくれたので、私は始て気が附いた。この注意を受けたのは、まだ本文を校・・・ 森鴎外 「訳本ファウストについて」
・・・何ぜかといえば、この宿場の猫背の馭者は、まだその日、誰も手をつけない蒸し立ての饅頭に初手をつけるということが、それほどの潔癖から長い年月の間、独身で暮さねばならなかったという彼のその日その日の、最高の慰めとなっていたのであったから。・・・ 横光利一 「蠅」
・・・道徳的には潔癖であるとさえ思い習わしていた自分が、汚穢に充ちた泥溝の内に晏如としてあった、という事実は、自分の人格に対する信頼を根本から揺り動かした。 腐敗はそれのみにとどまらなかった。私はいつのまにか愛の心を軽んじ侮るようになっていた・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫