・・・二階家はそのままで、辛うじて凌いだが、平屋はほとんど濁流の瀬に洗われた。 若い時から、諸所を漂泊った果に、その頃、やっと落着いて、川の裏小路に二階借した小僧の叔母にあたる年寄がある。 水の出盛った二時半頃、裏向の二階の肱掛窓を開けて・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ 水層はいよいよ高く、四ツ目より太平町に至る十五間幅の道路は、深さ五尺に近く、濁流奔放舟をもって渡るも困難を感ずるくらいである。高架線の上に立って、逃げ捨てたわが家を見れば、水上に屋根ばかりを見得るのであった。 水を恐れて雨に懊悩し・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・澄むの難く濁るの易き、水の如き人間の思潮は、忽ちの内に、濁流の支配する処となった、所謂現時の上流社会なるものが、精神的趣味の修養を欠ける結果、品位ある娯楽を解するの頭脳がないのである、彼等が蕩々相率ひて、浅薄下劣な娯楽に耽るに至れるは勢の自・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・それよりはむしろ小悪微罪に触れるさえ忍び得られないで独りを潔うする潔癖家であった。濁流の渦巻く政界から次第に孤立して終にピューリタニックの使命に潜れるようになったは畢竟この潔癖のためであった。が、ドウしてYに対してのみ寛大であったろう。U氏・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 四 黒竜江の結氷が轟音とともに破れ、氷塊は、濁流に押し流されて動きだす春がきた。 河蒸汽ののどかな汽笛が河岸に響きわたった。雪解の水は、岸から溢れそうにもれ上がっている。帆をあげた舟、発動汽船、ボート、櫓で漕ぐ・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・川は、ちょうどひき潮ですさまじい濁流がごうごうとうずまき、たぎっています。勇敢な高橋事務員は、その中へ決然一人でとびこんで、ようやく、向うの岸にひなんしていた船にたどりつき、船頭たちに、患者をはこんでくれるようにと、こんこんとたのみましたが・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟は残らず浪に・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・南伊豆は七月上旬の事で、私の泊っていた小さい温泉宿は、濁流に呑まれ、もう少しのところで、押し流されるところであった。富士吉田は、八月末の火祭りの日であった。その土地の友人から遊びに来いと言われ、私はいまは暑いからいやだ、もっと涼しくなってか・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・の努力をひたすら否定し、抹殺することで自身の保身法とするために、ソヴェトの社会主義的リアリズム論が歪めて援用された。これは一九三三年六月に佐野学、鍋山貞親を先頭とする「転向」の濁流の渦巻きとともにあらわれた。その有様のあさましさは今日の想像・・・ 宮本百合子 「解説(『風知草』)」
・・・しかし文学現象は、その寛容の谷間を、戦後経済の濁流とともにその日ぐらしに流れて、こんにちでは、そのゴモクタが文学の水脈をおおいかくし、腐敗させるところまで来ている。ちかごろあらわれる実名小説というものも、そこにどういう理窟がつけられようとも・・・ 宮本百合子 「心に疼く欲求がある」
出典:青空文庫