・・・着物を雨で濡らす心配があるか、ライン河の入日の画端書に感嘆の声を洩らす時のほかは、滅多に雲の影などへ心を止めないのも不思議ではない。いわんや今は薔薇の花の咲き乱れている路に、養殖真珠の指環だの翡翠まがいの帯止めだのが――以下は前に書いた通り・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・ 何しろここは東京の中心ですから、窓の外に降る雨脚も、しっきりなく往来する自働車や馬車の屋根を濡らすせいか、あの、大森の竹藪にしぶくような、ものさびしい音は聞えません。 勿論窓の内の陽気なことも、明い電燈の光と言い、大きなモロッコ皮・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・……加うるに、紫玉が被いだ装束は、貴重なる宝物であるから、驚破と言わばさし掛けて濡らすまいための、鎌倉殿の内意であった。 ――さればこそ、このくらい、注意の役に立ったのはあるまい。―― あわれ、身のおき処がなくなって、紫玉の裾が法壇・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・風は傘を奪おうとし、吹雪は顔と着物を濡らす。しかし若い男や女が、二重廻やコートや手袋襟巻に身を粧うことは、まだ許されていない時代である。貧家に育てられたらしい娘は、わたくしよりも悪い天気や時侯には馴れていて、手早く裾をまくり上げ足駄を片手に・・・ 永井荷風 「雪の日」
汽車の窓から怪しい空を覗いていると降り出して来た。それが細かい糠雨なので、雨としてよりはむしろ草木を濡らす淋しい色として自分の眼に映った。三人はこの頃の天気を恐れてみんな護謨合羽を用意していた。けれどもそれがいざ役に立つとなるとけっし・・・ 夏目漱石 「初秋の一日」
・・・ さめざめと母の涙が窶れた頬を濡らすのであった。「きいてたの? 幸坊――」 幸雄は聞いている。一間隔てた六畳に幸雄の真鍮燦く寝台があった。その上にゆったりと仰臥したまま、永久正気に戻ることない幸雄が襖越しに、「いいよ、心配し・・・ 宮本百合子 「牡丹」
出典:青空文庫