・・・ 夕方であったが、夜になって、的の黒白の輪が一つの灰色に見えるようになった時、女はようよう稽古を止めた。今まで逢った事も無いこの男が、女のためには古い親友のように思われた。「この位稽古しましたら、そろそろ人間の猟をしに出掛けられます・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・石灰の灰色に汚れたのが胸をむかむかさせる。 あれよりは……あそこにいるよりは、この闊々とした野の方がいい。どれほど好いかしれぬ。満洲の野は荒漠として何もない。畑にはもう熟しかけた高粱が連なっているばかりだ。けれど新鮮な空気がある、日の光・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・皮膚は蒼白に黄味を帯び、髪は黒に灰色交じりの梳らない団塊である。額には皺、眼のまわりには疲労の線条を印している。しかし眼それ自身は磁石のように牽き付ける眼である。それは夢を見る人の眼であって、冷たい打算的なアカデミックな眼でない、普通の視覚・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・遥に樹林と人家とが村の形をなして水田のはずれに横たわっているあたりに、灰色の塔の如きものの立っているのが見える。江戸川の水勢を軟らげ暴漲の虞なからしむる放水路の関門であることは、その傍まで行って見なくとも、その形がその事を知らせている。・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・折目をつまんで抛り出すと、婆さんの膝の傍に白繻子の裏を天井に向けて帽が転がる。灰色のチェスターフィールドを脱いで、一振り振って投げた時はいつもよりよほど重く感じた。日本服に着換えて、身顫いをしてようやくわれに帰った頃を見計って婆さんはまた「・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 印度人の小作りなのが揃って、唯灰色に荒れ狂うスクリーンの中で、鑿岩機を運転しているのであった。 ジャックハムマーも、ライナーも、十台の飛行機が低空飛行をでも為ているように、素晴らしい勢で圧搾空気を、ルブから吹き出した。 コムプ・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・棚引いている白雲は、上の方に黄金色の縁を取って、その影は灰色に見えている。昔の画家が聖母を乗せる雲をあんな風にえがいたものだ。山の裾には雲の青い影が印せられている。山の影は広い谷間に充ちて、広野の草木の緑に灰色を帯びさせている。山の頂の夕焼・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・空では雲がけわしい灰色に光り、どんどんどんどん北のほうへ吹きとばされていました。 遠くのほうの林はまるで海が荒れているように、ごとんごとんと鳴ったりざっと聞こえたりするのでした。一郎は顔いっぱいに冷たい雨の粒を投げつけられ、風に着物をも・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・ 灰色を帯びた柔かい水色の空。旧市街はその下に午後のうっすり寒い光を照りかえしている。足場。盛に積まれつつある煉瓦。 十月二十八日。 水色やかんを下げてYが、ヒョイヒョイとぶような足つきで駅の熱湯供給所へ行く後姿を、自分は列・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・外は相変らず、灰色の空から細かい雨が降っている。暑くはないが、じめじめとした空気が顔に当る。 女中は湯帷子に襷を肉に食い入るように掛けて、戸を一枚一枚戸袋に繰り入れている。額には汗がにじんで、それに乱れた髪の毛がこびり附いている。「・・・ 森鴎外 「あそび」
出典:青空文庫