・・・僕等は生れてこの天地の間に来る、無我無心の小児の時から種々な事に出遇う、毎日太陽を見る、毎夜星を仰ぐ、ここに於てかこの不可思議なる天地も一向不可思議でなくなる。生も死も、宇宙万般の現象も尋常茶番となって了う。哲学で候うの科学で御座るのと言っ・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・農民が逃げて、主人がなくなった黒い豚は、無心に、そこらの餌をあさっていた。彼等はそれをめがけて射撃した。 相手が×間でなく、必ずうてるときまっているものにむかって射撃するのは、実に気持のいゝことだった。こちらで引鉄を振りしめると、すぐ向・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・ 無心の子供を母親がたしなめていた。 井村は、自分にむけられた三本脚の松ツァンの焦燥にギョロ/\光った視線にハッとした。「うちの市三、別条なかったか。」 市三は、影も形も彼の眼に這入らなかった。井村は、眼を伏せて、溜息をして・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・お富は無心な子供の顔をみまもりながら、「お母さん、御覧なさい、この児はもうあの地震を覚えていないようですよ」 とお三輪に言って見せた。 そこはお三輪に取って彼女が両親の生れ故郷にあたる。そこには旧い親戚の家もある。そこの古い寺の・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・私もまだ山の上のわびしい暮らしをしていた時代で、かなり骨の折れる日を送っていたところへ、今の青山の姪の父親にあたる私の兄貴から、電報で百円の金の無心を受けた。当時兄貴は台湾のほうで、よくよく旅で困りもしたろうが、しかもそれが二度目の無心で、・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・彼等は内の箪笥の抽斗にまだ幾らかの金を持っている人達で、もし無心でも言われてはならないと思ったのである。その外の男等は冷淡に踵を旋らして、もと来た道へ引き返した。頭を垂れて、唇を噛みながらゆるやかに引返した。この男等は、人に分けてやるような・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ けれども、そんなことして、あの女工さん、おどろき、おそれてふっと声を失ったら、これは困る。無心の唄を、私のお礼が、かえって濁らせるようなことがあっては、罪悪である。私は、ひとりでやきもきしていた。 恋、かも知れなかった。二月、寒い・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・娘は、笑っていた。「こんどこそ、飲まないからね」「なにさ」娘は、無心に笑っていた。「かんにんして、ね」「だめよ、お酒飲みの真似なんかして」 男の酔いは一時にさめた。「ありがとう。もう飲まない」「たんと、たんと、からか・・・ 太宰治 「あさましきもの」
・・・ 私は無我無心でぼんやりしていた。ただ身体中の毛穴から暖かい日光を吸い込んで、それがこのしなびた肉体の中に滲み込んで行くような心持をかすかに自覚しているだけであった。 ふと気がついて見ると私のすぐ眼の前の縁側の端に一枚の浅草紙が落ち・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・いつもの通りの銅色の顔をして無心に藻草の中をあさっている。顔には憂愁の影も見えぬ。自分が近寄ったのも気が付かぬか、一心に拾っては砂浜の高みへ投げ上げている。脚元近く迫る潮先も知らぬ顔で、時々頭からかぶる波のしぶきを拭おうともせぬ。 何処・・・ 寺田寅彦 「嵐」
出典:青空文庫