・・・犬は彼が座敷へ通ると、白い背中の毛を逆立てながら、無性に吠え立て始めたのだった。「お前の犬好きにも呆れるぜ。」 晩酌の膳についてからも、牧野はまだ忌々しそうに、じろじろ犬を眺めていた。「前にもこのくらいなやつを飼っていたじゃない・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ですから車が橋を渡って、泰さんの家の門口へやっと梶棒を下した時には、嬉しいのか、悲しいのか、自分にも判然しないほど、ただ無性に胸が迫って、けげんな顔をしている車夫の手へ、方外な賃銭を渡す間も惜しいように、倉皇と店先の暖簾をくぐりました。・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・そして無性に癇癪を起こし続けた。「馬鹿野郎! 卑怯者! それは手前のことだ。手前が男なら、今から取って返すがいい。あの子供の代わりに言い開きができるのは手前一人じゃないか。それに……帰ろうとはしないのか」 そう自分で自分をたしなめて・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・ さて、一円ずつ貯金してきた通帳の額がちょうど四十円になった時、私は無性に秋山さんに会いたくなった。もっともそれまでも、紙芝居を持って大阪の町々をまわりながら、それとなく行方を探していたことはいましたが、見つからない。そこである日のこと・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・私はただ、何ということもなしに欺されたという想いのみが強く、そんなお談義は耳にはいらず、無性に腹が立って腹が立って、お友達にではない、あの人にでもない、自分自身に腹が立って……。しかし腹が立つといえば、いわゆる婚約期間中にも随分腹の立つこと・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・何だか会って一と言別れがしたいようである。このままでは物足りない。欺されでもしたようにあっけない。駈けつけてみようかしらと思うけれど、考えると、その伴れに来た人間に顔を見られるのが厭である。何だか無性に人相のよくない人間のような気がしてなら・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・それでも、その失礼を詫びるどころか、落ちついてしゃがみ、マリヤ自身の髪の毛で、あの人の濡れた両足をていねいに拭ってあげて、香油の匂いが室に立ちこもり、まことに異様な風景でありましたので、私は、なんだか無性に腹が立って来て、失礼なことをするな・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・私はソファから身を起して、廊下へ出た。寒気がきびしい。ここは本州の北端だ。廊下のガラス戸越しに、空を眺めても、星一つ無かった。ただ、ものものしく暗い。私は無性に仕事をしたくなった。なんのわけだかわからない。よし、やろう。一途に、そんな気持だ・・・ 太宰治 「故郷」
・・・ だまって同じ姿勢で立っていると、やたら無性に、お金が欲しくなって来る。十円あれば、よいのだけれど。「マダム・キュリイ」が一ばん読みたい。それから、ふっと、お母さん長生きするように、と思う。先生のモデルになっていると、へんに、つらい。く・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・いくら私が、売れのこりの、おたふくだって、あやまち一つ犯したことはなし、もう、そんな人とでも無ければ、結婚できなくなっているのかしらと、さいしょは腹立しく、それから無性に侘びしくなりました。お断りするより他、ないのでございますが、何せお話を・・・ 太宰治 「皮膚と心」
出典:青空文庫