・・・これもそう無性に喜ぶほど、悪魔の成功だったかどうか、作者は甚だ懐疑的である。 芥川竜之介 「おぎん」
・・・ひょっとすると生涯こうして考えているばかりで暮らすのかもしれないんですが、とにかく嘘をしなければ生きて行けないような世の中が無我無性にいやなんです。ちょっと待ってください。も少し言わせてください。……嘘をするのは世の中ばかりじゃもちろんあり・・・ 有島武郎 「親子」
・・・馬が溺りをする時だけ彼れは不性無性に立どまった。妻はその暇にようやく追いついて背の荷をゆすり上げながら溜息をついた。馬が溺りをすますと二人はまた黙って歩き出した。「ここらおやじが出るずら」 四里にわたるこの草原の上で、たった一度妻は・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・鍋の底はじりじりいう、昨夜から気を揉んで酒の虫は揉殺したが、矢鱈無性に腹が空いた。」と立ったり、居たり、歩行いたり、果は胡坐かいて能代の膳の低いのを、毛脛へ引挟むがごとくにして、紫蘇の実に糖蝦の塩辛、畳み鰯を小皿にならべて菜ッ葉の漬物堆く、・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・…… 頤骨が尖り、頬がこけ、無性髯がざらざらと疎く黄味を帯び、その蒼黒い面色の、鈎鼻が尖って、ツンと隆く、小鼻ばかり光沢があって蝋色に白い。眦が釣り、目が鋭く、血の筋が走って、そのヘルメット帽の深い下には、すべての形容について、角が生え・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・堪らず袖を巻いて唇を蔽いながら、勢い釵とともに、やや白やかな手の伸びるのが、雪白なる鵞鳥の七宝の瓔珞を掛けた風情なのを、無性髯で、チュッパと啜込むように、坊主は犬蹲になって、頤でうけて、どろりと嘗め込む。 と、紫玉の手には、ずぶずぶと響・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・なぜ足の達者なうちに踏破を試みなかったか、ここにも無性が祟っている。畳の上に臥転んで、山の案内記を読み、写真をながめて空想に耽ることが、一層楽しかったからでもあります。夏の日郊外の植木屋を訪ねて、高山植物を求め帰り道に、頭上高く飛ぶ白雲を見・・・ 小川未明 「春風遍し」
・・・日の光が斜めに窓からさし込むので、それを真面に受けた大尉の垢じみた横顔には剃らない無性髯が一本々々針のように光っている。女学生のでこでこした庇髪が赤ちゃけて、油についた塵が二目と見られぬほどきたならしい。一同黙っていずれも唇を半開きにしたま・・・ 永井荷風 「深川の唄」
出典:青空文庫