・・・が、その母譲りの眼の中には、洋一が予期していなかった、とは云え無意識に求めていたある表情が閃いていた。洋一は兄の表情に愉快な当惑を感じながら、口早に切れ切れな言葉を続けた。「今日は一番苦しそうだけれど、――でも兄さんが帰って来て好かった・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・一刀一拝した古人の用意はこの無意識の境に対する畏怖を語ってはいないであろうか? 創作は常に冒険である。所詮は人力を尽した後、天命に委かせるより仕方はない。少時学語苦難円 唯道工夫半未全到老始知非力取 三分人事七分天 ・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・生活から環境に働きかけていく場合、すべての人は意識的であると、無意識的であるとを問わなかったら、ことごとくこの衝動によって動かされていると感ずるものである。 私はかつて、この衝動の醇化された表現が芸術だといった。この立場からいうならば、・・・ 有島武郎 「想片」
・・・それは最後に、無意識に、救を求める訴であった。フレンチがあれをさえ思い出せば、万事解決することが出来ると思ったのは、この表情を自分がはっきり解したのに、やはり一同と一しょに、じっと動かずにいて、慾張った好奇心に駆られて、この人殺しの一々の出・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ お前は無意識に美しい権利を自覚しているのであるから。 魚を殺せ。そして釣れ。 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・謹三はほとんど無意識に叫んだ。「火事だ、火事です。」 と見る、偉大なる煙筒のごとき煙の柱が、群湧いた、入道雲の頂へ、海ある空へ真黒にすくと立つと、太陽を横に並木の正面、根を赫と赤く焼いた。「火事――」と道の中へ衝と出た、人の飛ぶ・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ けれども、厭な、気味の悪い乞食坊主が、村へ流れ込んだと思ったので、そう思うと同時に、ばたばたと納戸へ入って、箪笥の傍なる暗い隅へ、横ざまに片膝つくと、忙しく、しかし、殆んど無意識に、鳥目を。 早く去ってもらいたさの、女房は自分も急・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・夫婦の者が深くあいたよって互いに懐しく思う精神のほとんど無意識の間にも、いつも生き生きとして動いているということは、処世上つねに不安に襲われつつある階級の人に多く見るべきことではあるまいか。 そりゃ境遇が違えば、したがって心持ちも違うの・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・ 姉が呼ぶのに省作は無意識に立ってしまった。もうなんにも考えずに、背戸の竹山の雨の暗がりを走って隣へいってしまった。 湯は竈屋の庇の下で背戸の出口に据えてある。あたりまっ暗ではあれど、勝手知ってる家だから、足さぐりに行っても子細はな・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 虎の門そとから電車に乗ったのだが、半ば無意識的に浅草公園へ来た。 池のほとりをぶらついて、十二階を見ると、吉弥すなわち菊子の家が思い出された。誰れかそのうちの者に出会すだろうかも知れないと、あたりに注意して歩いた。僕はいつも考え込・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
出典:青空文庫