・・・何もお前遊びとは定まっていなかったが……と、ただ無意識で正直な挨拶をしながら、自分は凝然と少年を見詰めていた。その間に少年は自分が見詰められているのも何にも気が着かないのであろう、別に何らの言語も表情もなく、自分の竿を挙げ、自分の坐をわ・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・兄は、きっと死ぬる際まで、粋紳士風の趣味を捨てず、そんなはいからのこと言って、私をかつごうとしていたのでしょう。無意識に、お得意の神秘捏造をやっていたのでありましょう。ダイヤのネクタイピンなど、無いのを私は知って居りますので、なおのこと、兄・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・ 自然と身体をもがかずにはいられなくなった。綿のように疲れ果てた身でも、この圧迫にはかなわない。 無意識に輾転反側した。 故郷のことを思わぬではない、母や妻のことを悲しまぬではない。この身がこうして死ななければならぬかと嘆かぬで・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・私はほとんど無意識にそれを取り上げて見ているうちに、その紙の上に現われている色々の斑点が眼に付き出した。 紙の色は鈍い鼠色で、ちょうど子供等の手工に使う粘土のような色をしている。片側は滑かであるが、裏側はずいぶんざらざらして荒筵のような・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・したがって文芸の作物に対して、我を忘れ彼を忘れ、無意識に享楽を擅にする間は、時間も空間もなく、ただ意識の連続があるのみであります。もっともここに時間も空間もないと云うのは作物中にないと云うのではない、自己が作物に対する時間、また自己が占めて・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ 一本腕は無意識に手をさし伸べて、爺いさんの左の手に飛び附こうとした。「手を引っ込めろ。」爺いさんはこう云って、一歩退いた。そして左の手を背後へ引いて、右の手を隠しから出した。きらきらと光る小刀を持っていたのである。裸刃で。「手を引・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・己は何日もはっきり意識してもいず、また丸で無意識でもいず、浅い楽小さい嘆に日を送って、己の生涯は丁度半分はまだ分らず、半分はもう分らなくなって、その奥の方にぼんやり人生が見えている書物のようなものになってしまった。己の喜だの悲だのというもの・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ふき子の内身からは一種無碍な光輝が溢れ出て、何をしている瞬間でもその刹那刹那が若い生命の充実で無意識に過ぎて行く。丁度無心に咲いている花の、花自身は知らぬ深い美に似たものが、ふき子の身辺にあった。陽子は、自分の生活の苦しさなどについて一言も・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 夜具葛籠の前に置いてあった脇差を、手探りに取ろうとする所へ、もう二の太刀を打ち卸して来る。無意識に右の手を挙げて受ける。手首がばったり切り落された。起ち上がって、左の手でむなぐらに掴み着いた。 相手は存外卑怯な奴であった。むなぐら・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
一 偶像破壊が生活の進展に欠くべからざるものであることは今さら繰り返すまでもない。生命の流動はただこの道によってのみ保持せらる。我らが無意識の内に不断に築きつつある偶像は、注意深い努力によって、また不断に破壊せられねばならぬ。・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫