・・・おぎんは井戸端の無花果のかげに、大きい三日月を仰ぎながら、しばしば熱心に祈祷を凝らした。この垂れ髪の童女の祈祷は、こう云う簡単なものなのである。「憐みのおん母、おん身におん礼をなし奉る。流人となれるえわの子供、おん身に叫びをなし奉る。あ・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・ 路ばたに枯れた無花果といっしょに 基督ももう死んだらしい。 しかし我々は休まなければならぬ たとい芝居の背景の前にも。 ―― けれども僕はこの詩人のように厭世的ではありません。河童たち・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・これは、後段に、無花果云々の記事が見えるのに徴しても、明である。それから乗合はほかにはなかったらしい。時刻は、丁度昼であった。――筆者は本文へはいる前に、これだけの事を書いている。従ってもし読者が当時の状景を彷彿しようと思うなら、記録に残っ・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・蘆や白楊や無花果を彩るものは、どこを見ても濁った黄色である。まるで濡れた壁土のような、重苦しい黄色である。この画家には草木の色が実際そう見えたのであろうか。それとも別に好む所があって、故意こんな誇張を加えたのであろうか。――私はこの画の前に・・・ 芥川竜之介 「沼地」
・・・イタリアの柘榴か、イスパニアの真桑瓜か、それともずっと遠いアラビアの無花果か?主人 御土産ならば何でも結構です。まあ飛んで見せて下さい。王子 では飛ぶぞ。一、二、三!王子は勢好く飛び上る。が、戸口へも届かない内に、どたりと尻・・・ 芥川竜之介 「三つの宝」
・・・この間の日暮れなどもそうっと無花果を袂へ入れてくれた。そうそうこの前の稲刈りの時にもおれが鎌で手を切ったら、おとよさんは自分のかぶっていた手ぬぐいを惜しげもなく裂いて結わいてくれた。どうも思ってるのかもしれない。 考え出すと果てがない。・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
ある男が、縁日にいって、植木をひやかしているうちに、とうとうなにか買わなければならなくなりました。そして、無花果の鉢植えを買いました。「いつになったら、実がなるだろう。」「来年はなります。」と、植木屋は答えました。しかしその木・・・ 小川未明 「ある男と無花果」
・・・日は来たりぬ、われ再びこの暗く繁れる無花果の樹陰に座して、かの田園を望み、かの果樹園を望むの日は再び来たりぬ。 われ今再びかの列樹を見るなり。われ今再びかの牧場を見るなり。緑草直ちに門戸に接するを見、樹林の間よりは青煙閑かに巻きて空にの・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・馬小屋のはずれから、道の片側を無花果の木が長く続いている。自分はその影を踏んで行く。両方は一段低くなった麦畠である。お仙の歌はおいおいに聞えなくなる。ふと藤さんの事が胸に浮んでくる。藤さんはもう一と月も逗留しているのだと言った。そして毎日鬱・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・窓に倚りかかり、庭を見下せば、無花果の樹蔭で、何事も無さそうに妹さんが佐吉さんのズボンやら、私のシャツやらを洗濯して居ました。「さいちゃん。お祭を見に行ったらいい。」 と私が大声で話しかけると、さいちゃんは振り向いて笑い、「私は・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
出典:青空文庫