・・・滋養に富んだ牛肉とお行儀のいい鯛の塩焼を美味のかぎりと思っている健全な朴訥な無邪気な人たちは幸福だ。自分も最う一度そういう程度まで立戻る事が出来たとしたら、どんなに万々歳なお目出度かりける次第であろう……。惆悵として盃を傾くる事二度び三度び・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・と露子は無邪気に聞く。「ええ、少しその、用があって近所まで来たのですから」とようやく一方に活路を開く。随分苦しい開き方だと一人で肚の中で考える。「それでは、私に御用じゃないの」と御母さんは少々不審な顔つきである。「ええ」「も・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・今この語法に従い女子に向て所望すれば、起居挙動の高尚優美にして多芸なるは御殿女中の如く、談笑遊戯の気軽にして無邪気なるは小児の如く、常に物理の思想を離れず常に経済法律の要を忘れず、深く之を心に蔵めて随時に活用し、一挙一動一言一話活溌と共に野・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・その小さな奴を膝の上にも置かないでやはり上向けて大熊手持ったようにさしあげて居たのもおかしい。その無邪気な間の抜けた顔は慥かに無慾という事を現して居るので、こいつには大に福を与えてやりたかった。自分が福の神であったら今宵この婆さんの内に往て・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・けれどもいかにも無邪気な子供らしい声が、呼んだり答えたり、勝手にひとり叫んだり、わあと笑ったり、その間には太い底力のある大人の声もまじって聞えて来たのです。いかにも何か面白そうなのです。たまらなくなって、私はそっちへ走りました。さるとりいば・・・ 宮沢賢治 「茨海小学校」
・・・ ひところは本当にひどくて、女の独断がそのまま色彩のとりあわせや帽子の形やにあらわれているようで、そういう人たちがいわば無邪気であればあるほどこちらで何となし顔のあからむような思いもないことはなかった。たとえば帽子の型のある奇抜な面白味・・・ 宮本百合子 「新しい美をつくる心」
・・・博士は再び無邪気らしい、短い笑声を洩して語り続けた。「あればかりではないよ。己の処へは己の思付を貰いに来る奴が沢山あるのだ。むつかしく云えば落想とでも云うのかなあ。独逸語なら Einfaelle とでも云うのだろう。しかし己は嘘は言わな・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・一つはあなたがいかにも無邪気に、初心らしくおっしゃったので、「おや、この方はどんな途方もない事をおっしゃるのだか、御自身ではお分かりにならないのだな」と存じましたの。それから今一つはまあ、なんと申しましょうか。わたくしあなたに八分通り迷って・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・この少年が博士になったとは、どう思ってみても梶には頷けないことだったが、笑顔に顕れてかき消える瞬間の美しさは、その他の疑いなどどうでも良くなる、真似手のない無邪気な笑顔だった。梶は学問上の彼の苦しみや発明の辛苦の工程など、栖方から訊き出す気・・・ 横光利一 「微笑」
・・・それに加えておのれの生家のいろいろな不幸をも早くから経験しなくてはならなかった。無邪気な少年の心に、わがままを抑えるとか、他人の気を兼ねるとかの必要が、冷厳な現実としてのしかかってくる。これは一人の人の生涯にとっては非常に大きい事件だと言わ・・・ 和辻哲郎 「藤村の個性」
出典:青空文庫