・・・と何故かこの絵が、いわれある、活ける恋人の如く、容易くは我が手に入らない因縁のように、寝覚めにも懸念して、此家へ入るのに肩を聳やかしたほど、平吉がかかる態度に、織次は早や躁立ち焦る。 平吉は他処事のように仰向いて、「なあ、これえ。」・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・と言われようと焦るのだったが、思うように弾けなかった。 夜が更けて来た。 寿子はわっと泣き出したかった。が、泣くまいと堪えていたのは、生れつきの勝気な気性であったろうか。 しかし、寿子の眼は不思議に、冷たく冴え返っていた。その眼・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・ 上村君なんかは最初、馬鈴薯党で後に牛肉党に変節したのだ、即ち薄志弱行だ、要するに諸君は詩人だ、詩人の堕落したのだ、だから無暗と鼻をぴくぴくさして牛の焦る臭を嗅いで行く、その醜体ったらない!」「オイオイ、他人を悪口する前に先ず自家の所信・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ 私の経験から生じる一般的助言としては、「恋愛に焦るな」「結婚を急ぐな」と私はいいたい。二十五歳までの青年学生が何をあわてることがあろう。美しき娘たちは後から星の数ほどむらがり、チャンスはみちみちている。あまり早期に同じ年ごろの女性と恋・・・ 倉田百三 「学生と生活」
上 鳥が其巣を焚かれ、獣が其窟をくつがえされた時は何様なる。 悲しい声も能くは立てず、うつろな眼は意味無く動くまでで、鳥は篠むらや草むらに首を突込み、ただ暁の天を切ない心に待焦るるであろう。獣は所謂駭き心になって急に奔ったり・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・少年は羨ましそうに予の方を見た。 続いてまた二尾、同じようなのが鉤に来た。少年は焦るような緊張した顔になって、羨しげに、また少しは自分の鉤に何も来ぬのを悲しむような心を蔽いきれずに自分の方を見た。 しばらく彼も我も無念になって竿先を・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・その切ないものが身体中の筋肉を下から持上げて、毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと焦るけれども、どこも一面に塞がって、まるで出口がないような残刻極まる状態であった。 そのうちに頭が変になった。行灯も蕪村の画も、畳も、違棚も有って無いような・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・―― そうかと思うと、彼等は俄に生きものらしい衝動的なざわめきを起し、日が沈んだばかりの、熱っぽい、藍と卵色の空に向って背延びをしようと動き焦るように思われる。 夜とともに、砂漠には、底に潜んだほとぼりと、当途ない漠然とした不安が漲・・・ 宮本百合子 「翔び去る印象」
・・・ 文学を現実の生活から切りはなしたどこかで作られるもののように考え、感じ、焦るのは、ある才能をもすりへらしてしまう最も危険な誤りの一つである。 文学はわれわれの生きている現実の生活を突きつめてそれを芸術化して行くところに生れるのであ・・・ 宮本百合子 「見落されている急所」
出典:青空文庫