・・・赤に煎餅を食わせて居る太十の姿がよく村の駄菓子店に見えた。焼けの透らぬ堅い煎餅は犬には一度に二枚を噛ることは出来ない。顎が草臥れて畢うのである。唯欲し相にして然かも鼻をひくひくと動かす犬を見て太十は独で笑うのである。赤は恐ろしい人なつこい犬・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・わが額の焼ける事は」という。願う事の叶わばこの黄金、この珠玉の飾りを脱いで窓より下に投げ付けて見ばやといえる様である。白き腕のすらりと絹をすべりて、抑えたる冠の光りの下には、渦を巻く髪の毛の、珠の輪には抑えがたくて、頬のあたりに靡きつつ洩れ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・だから、私は彼女に、私が全で焼けつくような眼で彼女の××を見ていると云うことを、知られたくなかったのだ。眼だけを何故私は征服することが出来なかっただろうか。 若し彼女が私の眼を見ようものなら、「この人もやっぱり外の男と同じだわ」と思うに・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ば隣家は頻りに繁昌して財産も豊なるに、我家は貧乏の上に不仕合のみ打続く、羨ましきことなり憎らしきことなり、隣翁が何々の方角に土蔵を建てゝ鬼瓦を上げたるは我家を睨み倒さんとするの意なり、彼の土蔵が火事に焼けたらば面白からん、否な人の見ぬ間に火・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・と附添の一人が気遣わしげにいうと、穏坊は相変らず澄ました調子で「すぐ焼けてしまいまする」などといっておる。火に照らされている穏坊の顔は鬼かとも思うように赤く輝いでいる。こんな物凄い光景を想像して見ると何かの小説にあるような感じがして稍興に乗・・・ 正岡子規 「死後」
・・・そして、とうとう大きなてっぺんの焼けた栗の木の前まで来た時、ぼんやり幾つにも別れてしまいました。 そこはたぶんは、野馬の集まり場所であったでしょう。霧の中に丸い広場のように見えたのです。 嘉助はがっかりして、黒い道をまた戻りはじめま・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・ 十八で日に焼けた頬はうす黒いけれ共自然のまんまに育った純な心持をのこりなく表して居る、両方の眼は澄んで大きな瞳をかこんだ白眼は都会に育った人の様な青味を帯びては居なかった。 何の苦労と云う事も知らずに育った仙二は折々は都会のにぎや・・・ 宮本百合子 「グースベリーの熟れる頃」
・・・熱帯地方の子供かと思うように、ひどく日に焼けた膚の色が、白地の浴衣で引っ立って見える。筋肉の緊まった、細く固く出来た体だということが一目で知れる。 暫く見ていた花房は、駒下駄を脱ぎ棄てて、一足敷居の上に上がった。その刹那の事である。病人・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・梶は高田とよく会うたびに栖方のことを訊ねても、家が焼け棲家のなくなった高田は、栖方についてはもう興味の失せた答えをするだけで、何も知らなかった。ただ一度、栖方と別れて一ヶ月もしたとき、句会の日の技師から高田にあてて、栖方は襟章の星を一つ附加・・・ 横光利一 「微笑」
・・・その後東京の町は激しく破壊され、先生が大震災後住みついていられたお宅も、愛蔵された書籍や書画や骨董とともに焼けてしまった。それのみか、戦いの終わろうとする間ぎわになって、やはり空襲のために、学徒で召集されていた愛孫を失われた。そのあとには占・・・ 和辻哲郎 「歌集『涌井』を読む」
出典:青空文庫