・・・けれどもあるお嬢さんの記憶、――五六年前に顔を合せたあるお嬢さんの記憶などはあの匂を嗅ぎさえすれば、煙突から迸る火花のようにたちまちよみがえって来るのである。 このお嬢さんに遇ったのはある避暑地の停車場である。あるいはもっと厳密に云えば・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・時々小さい火の光りが流れるように通りすぎるが、それも遠くの家の明りだか、汽車の煙突から出る火花だか判然しない。その中でただ、窓をたたく、凍りかかった雨の音が、騒々しい車輪の音に単調な響を交している。 本間さんは、一週間ばかり前から春期休・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・ ××の鎮海湾へ碇泊した後、煙突の掃除にはいった機関兵は偶然この下士を発見した。彼は煙突の中に垂れた一すじの鎖に縊死していた。が、彼の水兵服は勿論、皮や肉も焼け落ちたために下っているのは骸骨だけだった。こう云う話はガンルウムにいたK中尉・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・通りの海添いに立って見ると、真青な海の上に軍艦だの商船だのが一ぱいならんでいて、煙突から煙の出ているのや、檣から檣へ万国旗をかけわたしたのやがあって、眼がいたいように綺麗でした。僕はよく岸に立ってその景色を見渡して、家に帰ると、覚えているだ・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・ 一個洋服の扮装にて煙突帽を戴きたる蓄髯の漢前衛して、中に三人の婦人を囲みて、後よりもまた同一様なる漢来れり。渠らは貴族の御者なりし。中なる三人の婦人等は、一様に深張りの涼傘を指し翳して、裾捌きの音いとさやかに、するすると練り来たれる、・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ 足の運びにつれて目に映じて心に往来するものは、土橋でなく、流でなく、遠方の森でなく、工場の煙突でなく、路傍の藪でなく、寺の屋根でもなく、影でなく、日南でなく、土の凸凹でもなく、かえって法廷を進退する公事訴訟人の風采、俤、伏目に我を仰ぎ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・が、蔵前の煙突も、十二階も、睫毛に一眸の北の方、目の下、一雪崩に崕になって、崕下の、ごみごみした屋根を隔てて、日南の煎餅屋の小さな店が、油障子も覗かれる。 ト斜に、がッくりと窪んで暗い、崕と石垣の間の、遠く明神の裏の石段に続くのが、大蜈・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・けれど遠くへだたっていますので、ただ赤い筋と、ひらひらひるがえっている旗と、太い煙突と、その煙突から上る黒い煙と、高い三本のほばしらとが見えたばかりであります。そして船の過ぎる跡には白い波があわだっているばかりでありました。 露子は、ど・・・ 小川未明 「赤い船」
青い、美しい空の下に、黒い煙の上がる、煙突の幾本か立った工場がありました。その工場の中では、飴チョコを製造していました。 製造された飴チョコは、小さな箱の中に入れられて、方々の町や、村や、また都会に向かって送られるのでありました。・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・ ちょうど、このときまで、熱心に下の地球を見守っていましたやさしい星は、「いま、二つの工場の煙突が、たがいに、どちらが毎日、早く鳴るかといって、いい争っているのです。」といいました。「それは、おもしろいことだ。煙突がいい争ってい・・・ 小川未明 「ある夜の星たちの話」
出典:青空文庫