・・・四方の壁は古新聞で貼って、それが煤けて茶色になった。日光の射すのは往来に向いた格子附の南窓だけで、外の窓はどれも雨戸が釘着けにしてある。畳はどんなか知らぬが、部屋一面に摩切れた縁なしの薄縁を敷いて、ところどころ布片で、破目が綴くってある。そ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・勾配のひどく急な茅屋根の天井裏には煤埃りが真黒く下って、柱も梁も敷板も、鉄かとも思われるほど煤けている。上塗りのしてない粗壁は割れたり落ちたりして、外の明りが自由に通っている。「狐か狸でも棲ってそうな家だねえ」耕吉はつくづくそう思って、・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・翁の影太く壁に映りて動き、煤けし壁に浮かびいずるは錦絵なり。幸助五六歳のころ妻の百合が里帰りして貰いきしその時粘りつけしまま十年余の月日経ち今は薄墨塗りしようなり、今宵は風なく波音聞こえず。家を繞りてさらさらと私語くごとき物音を翁は耳そばだ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・自分の寝ている六畳の間すら煤けた天井の影暗く被い、靄霧でもかかったように思われた。 妻のお政はすやすやと寝入り、その傍に二歳になる助がその顔を小枕に押着けて愛らしい手を母の腮の下に遠慮なく突込んでいる。お政の顔色の悪さ。さなきだに蒼ざめ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 足も立てられないような汚い畳を二三枚歩いて、狭い急な階子段を登り、通された座敷は六畳敷、煤けた天井低く頭を圧し、畳も黒く壁も黒い。 けれども黒くないものがある。それは書籍。 桂ほど書籍を大切にするものはすくない。彼はいかなる書・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・ おふくろが、昔、雨の日に、ぶん/\まわして糸を紡いだ糸車は、天井裏の物置きで、まッ黒に煤けていた。鼠が時に、その上にあがると、糸車は、天井裏でブルン/\と音をたてた。「あの音は、なんぞいの?」 晩のことだった。耳が遠くなったお・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ と私は言ってみせた。 煤けた障子の膏薬張りを続けながら、私はさらに言葉をつづけて、「ホラ、この前に見て来た家サ。あそこはまるで主人公本位にできた家だね。主人公さえよければ、ほかのものなぞはどうでもいいという家だ。ただ、主人公の・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・高い天井からは炉の上に釣るした煤けた自在鍵がある。炉に焚く火はあかあかと燃えて、台所の障子にも柱にも映っている。いそいそと立ち働くお新が居る。下女が居る。養子も改まった顔付で奥座敷と台所の間を往ったり来たりしている。時々覗きに来る三吉も居る・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・近くまで汁粉屋が借りていたとかで、古い穴のあいた襖、煤けた壁、汚れた障子などが眼につく。炬燵を切ったあたりは畳も焼け焦げて、紙を貼り着けてある。住み荒した跡だ。「まあ、こんなものでしょう」 と先生は高瀬に言って、一緒に奥の方まで見て・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・頸を伸ばして隣りの三畳間を覗くと、三畳間の隅に、こわれかかった七輪が置かれてあって、その上に汚く煤けたアルミニュームの薬鑵がかけられている。これだと思った。そろそろと膝行して三畳間に進み、学生たちもおくれては一大事というような緊張の面持でぴ・・・ 太宰治 「不審庵」
出典:青空文庫