・・・ さしあたり、ことわりもしないで、他の労業を無にするという遠慮だが、その申訳と、渠等を納得させる手段は、酒と餅で、そんなに煩わしい事はない。手で招いても渋面の皺は伸びよう。また厨裡で心太を突くような跳梁権を獲得していた、檀越夫人の嫡女が・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ そして其処には只だ一つ宗教というものがあって、其所へ逃げて行く事は出来るけれども、又一面より見れば此の宗教という者も、一種の禁欲主義に外ならないではないか、人間的な生活――此の煩わしい現実の生活から離れて、特殊な欲望を禁じて強いて・・・ 小川未明 「絶望より生ずる文芸」
・・・たとえば、その書簡の封を開くと、その中からは意外な悲しいことや煩わしいことが現われようとも、それは第二段の事で、差当っては長閑な日に友人の手紙、それが心境に投げられた恵光で無いことは無い。 見るとその三四の郵便物の中の一番上になっている・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・ この映画の頂点はヒロインが舞台で衣裳をかなぐり捨てブロンドのかつらを叩きつけて煩わしい虚偽の世界から自由な真実の天地に躍り出す場面であって、その前のすべてのストーリーはこの頂点へ導くための設計であるように見える。一九〇九年型の女優が一・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(5[#「5」はローマ数字、1-13-25])」
・・・その習慣がつかない中は、忌わしく煩わしいものであるが、一旦既に習慣がついた以上は、それなしに生活ができないほど、日常的必要なものになってしまう。この頃では僕にも少しその習慣がついたらしく、稀れに人と逢わない日を、寂しく思うようにさえなって来・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・家庭というもののうちにあるそういう煩わしい、幾分悲しく腹立たしい過敏な視線が、若い世代を外へとはじき出していることを、父母たちはどの程度に洞察しているだろうか。 社会の歩みは日本の今日の若い世代を片脚だけ鎖の切れたプロメシゥスのような存・・・ 宮本百合子 「異性の友情」
・・・ ただ、その表現がなかなか整理されず――つまりは、皆の人によくのみこませようとするのでしょうが、重複したりして煩わしいものがあります。 一番関心を持たせられるのは、お役所などから廻ってくる印刷物に相当ムダがあって例えば“祝い終った、・・・ 宮本百合子 「回覧板への注文」
・・・そうして見れば、訳本その物には別に煩わしい書添をしなくても好くはあるまいか。 そんなら翻訳の凡例はどうかと云うに、私は実際凡例として書く程の箇条を持っていない。総てこの頃の私の翻訳はそうであるが、私は「作者がこの場合にこの意味の事を日本・・・ 森鴎外 「訳本ファウストについて」
・・・彼は、「生の流転をはかなむ心持ちに纏絡する煩わしい感情から脱したい、乃至時々それから避けて休みたい、ある土台を得たい」という心を起こすのである。そうしてそれが、たとい時に彼を宗教へ向かわせるにしても、結局宗教芸術に現われた、「永久味」の味到・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
・・・画かきさんはさらに煩わしい人事の渦中、平然としてボケ花中に眠る心持ちを保たねばならぬ。他人の神経衰弱を癒すにはまず陰気な顔をした患者を自由に操縦せねばならぬ。 西行法師はこの点に一種の解決を与えた男である。一朝浮世のはかなさを悟っては直・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫