・・・ げに人間の心こそ、無明の闇も異らね、 ただ煩悩の火と燃えて、消ゆるばかりぞ命なる。 下 夜、袈裟が帳台の外で、燈台の光に背きながら、袖を噛んで物思いに耽っている。 その独白・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・生死即涅槃と云い、煩悩即菩提と云うは、悉く己が身の仏性を観ずると云う意じゃ。己が肉身は、三身即一の本覚如来、煩悩業苦の三道は、法身般若外脱の三徳、娑婆世界は常寂光土にひとしい。道命は無戒の比丘じゃが、既に三観三諦即一心の醍醐味を味得した。よ・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・が、余りに憧るる煩悩は、かえって行澄ましたもののごとく、容も心も涼しそうで、紺絣さえ松葉の散った墨染の法衣に見える。 時に、吸ったのが悪いように、煙を手で払って、叺の煙草入を懐中へ蔵うと、静に身を起して立ったのは――更めて松の幹にも凭懸・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ この時、煩悩も、菩提もない。ちょうど汀の銀の蘆を、一むら肩でさらりと分けて、雪に紛う鷺が一羽、人を払う言伝がありそうに、すらりと立って歩む出端を、ああ、ああ、ああ、こんな日に限って、ふと仰がるる、那須嶽連山の嶺に、たちまち一朶の黒雲の・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・及び「不断煩悩得涅槃」の両聯も、訪客に異様な眼をらした小さな板碑や五輪の塔が苔蒸してる小さな笹藪も、小庭を前にした椿岳旧棲の四畳半の画房も皆焦土となってしまった。この画房は椿岳の亡い後は寒月が禅を談じ俳諧に遊び泥画を描き人形を捻る工房となっ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ぶしつけな不遜な私の態度を御赦しくださいませ――なおもなおも深く身を焦さねばならぬ煩悩の絆にシッカと結びつけられながら、身ぶるいするようなあの鉄枠やあるいは囚舎の壁、鉄扉にこの生きた魂、罪に汚れながらも自分のものとしてシッカと抱いていねばな・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・されどおもしろき景色にめでて煩悩も軽きはいとよし。松島の景といえばただただ、松しまやああまつしまやまつしまやと古人もいいしのみとかや、一ツ一ツやがてくれけり千松島とつらねし技倆にては知らぬこと、われわれにては鉛筆の一ダース二ダースつかいても・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・元来古今を貫ぬく真理を知らないから困るのサ、僕が大真理を唱えて万世の煩悩を洗ッてやろうというのも此奴らのためサ。マア聞き玉え真理を話すから。迂濶に聞ていてはいけないよ、真理を発揮してやるから。僕は実に天地の機微を観破したのサ。中々安くない論・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・もっと一般に言えば宇宙のエントロピーが次第に減少し、世界は平等から差別へ、涅槃から煩悩へとこの世は進展するのである。これは実に驚くべき大事件でなければならない。もっと言葉を変えて言えば、すべての事がらは、現世で確率の大きいと思われるほうから・・・ 寺田寅彦 「映画の世界像」
・・・これらが煩悩の犬だろう。松が端から車を雇う。下町は昨日の祭礼の名残で賑やかな追手筋を小さい花台をかいた子供連がねって行く。西洋の婦人が向うから来てこれとすれちがった。牧牛会社の前までくると日が入りかかって、川端の榎の霜枯れの色が実に美しい。・・・ 寺田寅彦 「高知がえり」
出典:青空文庫