・・・それが追々笑って済ませなくなるまでには、――この幽鬱な仮面に隠れている彼の煩悶に感づくまでには、まだおよそ二三箇月の時間が必要だったのです。が、話の順序として、その前に一通り、彼の細君の人物を御話しして置く必要がありましょう。「私が始め・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・私はそのためにこの何日か、煩悶に煩悶を重ねて参りました。どうかあなたの下部、オルガンティノに、勇気と忍耐とを御授け下さい。――」 その時ふとオルガンティノは、鶏の鳴き声を聞いたように思った。が、それには注意もせず、さらにこう祈祷の言葉を・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・しかもかくのごときはただこれ困窮の余に出でたことで、他に何等の煩悶があってでもない。この煩悶の裡に「鐘声夜半録」は成った。稿の成ると共に直ちにこれを東京に郵送して先生の校閲を願ったが、先生は一読して直ちに僕が当時の心状を看破せられた。返事は・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・る時が無く、夜も安くは眠られないが、いよいよ捕えられて獄中の人となってしまえば、気も安く心も暢びて、愉快に熟睡されると聞くが、自分の今夜の状態はそれに等しいのであるが、将来の事はまだ考える余裕も無い、煩悶苦悩決せんとして決し得なかった問題が・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・これで見ると、省作も出てくるまでには、いくばくの煩悶をしたらしい。「おッ母さん、着物はどこです、わたしの着物は」 省作は立ったまま座敷の中をうろうろ歩いてる。「おれが今見てあげるけど、お前なにか着替も持って来なかったかい」「・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・三 二葉亭は長生きしても終生煩悶の人 それなら二葉亭は旧人として小説を書くに方っても天下国家を揮廻しそうなもんだが、芸術となるとそうでない。二葉亭の対露問題は多年の深い研究とした夙昔の抱負であったし、西伯利から満洲を放浪し、・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・「気の欝したる時は外出せば少しは紛るる事もあるべしと思へどもわざと引籠りて求めて煩悶するがかへつて心地よきやうにも覚ゆ。」 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・この手紙は牧師の二度と来ぬように、謂わば牧師を避けるために書く積りで書き始めたものらしい。煩悶して、こんな手紙を書き掛けた女の心を、その文句が幽かに照し出しているのである。「先日おいでになった時、大層御尊信なすっておいでの様子で、お話に・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・私自身にとっても、憧憬、煩悶、反抗、懐疑、信仰、いろ/\と、心の推移と、其の時代々々の思想と生活の異った有様とを顧みて、それ等をあり/\と目の前に描くことができます。 何といっても、私が最も、年齢について、悲哀を感じたのは、その三十の年・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・けれども此の死を讃美し此れを希うという事は既に或る解決であって、最早煩悶の時代を去った、そして宗教に合致したのであって真のもだえというべきは此に達する間の苦しみでなくてはならぬ。 今一つ言うべきは、現実という事である。此れも極めて物質的・・・ 小川未明 「絶望より生ずる文芸」
出典:青空文庫