・・・人殺しをしたものが長い年月の後に熱病でもわずらった時に殺した時の犠牲者の顔をありあり見るというが、それはおそらく自分の見た幻覚と類した程度のものが見えるのではあるまいかと思った。 もう一つ不思議な錯覚のようなものがあった。ある日例のよう・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・そうしてその熱病患者に特有なような目つきが何かしら押え難い心の興奮を物語っているように見えた。男の背中には五六歳ぐらいの男の子が、さもくたびれ果てたような格好でぐったりとして眠っていた。雨も降らぬのに足駄をはいている、その足音が人通りのまれ・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・そこでもって家賃が滞る――倫敦の家賃は高い――借金ができる、寄宿生の中に熱病が流行る。一人退校する、二人退校する、しまいに閉校する。……運命が逆まに回転するとこう行くものだ。可憐なる彼ら――可憐は取消そう二人とも可憐という柄ではない――エー・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・そしてぼくが桃いろをした熱病にかかっていてそこへいま水が来たのでぼくは足から水を吸いあげているのだった。どきっとして眼をさました。水がこぼこぼ裂目のところで泡を吹きながらインクのようにゆっくりゆっくりひろがっていったのだ。 水が来なくな・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ひどい熱病にかかったのです。 * ホモイが、おとうさんやおっかさんや、兎のお医者さんのおかげで、すっかりよくなったのは、鈴蘭にみんな青い実ができたころでした。 ホモイは、ある雲のない静かな晩、はじめてうちからちょっと・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・ なめくじはあんまりくやしくて、しばらく熱病になって、「うう、くもめ、よくもぶじょくしたな。うう。くもめ。」といっていました。 網は時々風にやぶれたりごろつきのかぶとむしにこわされたりしましたけれどもくもはすぐすうすう糸をはいて・・・ 宮沢賢治 「蜘蛛となめくじと狸」
・・・それからもうひどい熱病になって、二か月の間というもの、「とっこべとら子に、だまされだ。ああ欺されだ」と叫んでいました。 みなさん。こんな話は一体ほんとうでしょうか。どうせ昔のことですから誰もよくわかりませんが多分偽ではないでしょうか・・・ 宮沢賢治 「とっこべとら子」
・・・ 風が一そうはげしくなってひのきもまるで青黒馬のしっぽのよう、ひなげしどもはみな熱病にかかったよう、てんでに何かうわごとを、南の風に云ったのですが風はてんから相手にせずどしどし向うへかけぬけます。 ひなげしどもはそこですこうししずま・・・ 宮沢賢治 「ひのきとひなげし」
・・・民間の経済雑誌に、国際間の経済統計、生産指数などの発表されることを禁じた日本の軍部は、そうして世界の現実を人々の目からかくしたと同時に、非合理な戦争によって熱病のように混乱、高騰、崩壊する日本国内生産と経済事情を――人民生活の全面的な破壊の・・・ 宮本百合子 「現代史の蝶つがい」
・・・に書かれているまでのアグネス・スメドレーは、不屈な闘志と生来の潔白な人間的欲求と共に熱病的な矛盾と自然発生的な手さぐりな、しかし熱烈な生きかたとを展開しているのである。「女一人大地を行く」が書かれてから既に十年近い月日が経った。スメドレ・・・ 宮本百合子 「中国に於ける二人のアメリカ婦人」
出典:青空文庫