・・・ やがて、自分のを並べ果てて、対手の陣も敷き終る折から、異香ほのぼのとして天上の梅一輪、遠くここに薫るかと、遥に樹の間を洩れ来る気勢。 円形の池を大廻りに、翠の水面に小波立って、二房三房、ゆらゆらと藤の浪、倒に汀に映ると見たのが、次・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ とやっぱり芬とする懐中の物理書が、その途端に、松葉の燻る臭気がし出した。 固より口実、狐が化けた飛脚でのうて、今時町を通るものか。足許を見て買倒した、十倍百倍の儲が惜さに、貉が勝手なことを吐く。引受けたり平吉が。 で、この平さ・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・二の烏 はて、下司な奴、同じ事を不思議な花が薫ると言え。三の烏 おお、蘭奢待、蘭奢待。一の烏 鈴ヶ森でも、この薫は、百年目に二三度だったな。二の烏 化鳥が、古い事を云う。三の烏 なぞと少い気でおると見える、はははは。・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ これで安心して、衝と寄りざまに、斜に向うへ離れる時、いま見たのは、この女の魂だったろう、と思うほど、姿も艶に判然して、薄化粧した香さえ薫る。湯上りの湯のにおいも可懐いまで、ほんのり人肌が、空に来て絡った。 階段を這った薄い霧も、こ・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・雪の中で点火されぷす/\燻りながら炭になってしまうのだった。雪の中で燻る枕木は外へは火も煙も立てなかった。上から見れば、それは一分の故障もない完全な線路であった。歩哨にも警戒隊にも分らなかった。而も、そこへ列車が通りかゝると、綿を踏んだよう・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・春ともなればリラの花も薫るであろう。しかしわが東京、わが生れた孤島の都市は全く滅びて灰となった。郷愁は在るものを思慕する情をいうのである。再び見るべからざるものを見ようとする心は、これを名づけてそも何と言うべき歟。昭和廿一年十月草・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・ しかしながら冬の夜のヒューヒュー風が吹く時にストーヴから煙りが逆戻りをして室の中が真黒に一面に燻るときや、窓と戸の障子の隙間から寒い風が遠慮なく這込んで股から腰のあたりがたまらなく冷たい時や、板張の椅子が堅くって疝気持の尻のように痛く・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・薫風やともしたてかねつ厳島「風薫る」とは俳句の普通に用いるところなれどしか言いては「薫る」の意強くなりて句を成しがたし。ただ夏の風というくらいの意に用いるものなれば「薫風」とつづけて一種の風の名となすにしかず。けだし蕪村の烱眼は早く・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・奥に家族の寝台がある土間に床几と卓を並べ、燻る料理ストーブが立っているわきの壁に、羊の股肉とニンニクの玉とがぶら下っている。そういう風なのである。 バクー名所の一つである九世紀頃のアラビア人の防壁を見物して、磨滅した荒い石段々を弾む足ど・・・ 宮本百合子 「石油の都バクーへ」
出典:青空文庫