・・・その中でも、父さんに連れられて震災前の丸善へ行った時に買って貰って来た人形は、一番長くあった。あれは独逸の方から新荷が着いたばかりだという種々な玩具と一緒に、あの丸善の二階に並べてあったもので、異国の子供の風俗ながらに愛らしく、格安で、しか・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
・・・ かつみさんの口から出て来る話は、昔ながらの「叔父さん、叔母さん」だ。その時、青山の姪はかつみさんの「ちょうど」を聞きとがめて、「ちょうどと言いますと――」「五十ですよ。」 この「五十」が私を驚かした。私は自分の年とったこと・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・と妻は突然、あらたまったような口調で言い、「父さんは、いつでも本気なのか冗談なのかわからないような非常識な事ばかりおっしゃるんだもの。信用の無いのは当り前よ。こんなになっても、きっとお酒の事ばかり考えていらっしゃるんだから。」「まさか、・・・ 太宰治 「薄明」
・・・その靴磨きのルンペンの一人がすなわち休憩室の飾り物を貰った子供の御父さんである。バーは紙の建築で人の出入りはないが表を色々の人通りがある。 役者でも舞台の一方から一方へただ黙って通りぬけるだけの役があるらしい。そんな役であってもやはり舞・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
一 私は今年四十二才になる。ちょうどこの雑誌の読者諸君からみれば、お父さんぐらいの年頃であるが、今から指折り数えると三十年も以前、いまだに忘れることの出来ないなつかしい友達があった。この話はつくりごとでないから・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ただ「御父さん、重いかい」と聞いた。「重かあない」と答えると「今に重くなるよ」と云った。 自分は黙って森を目標にあるいて行った。田の中の路が不規則にうねってなかなか思うように出られない。しばらくすると二股になった。自分は股の・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・ 六平の娘が戸をガタッと開けて、「あれまあ、父さん。そったに砂利しょて何しただす」と叫びました。 六平もおどろいておろしたばかりの荷物を見ましたら、おやおや、それはどての普請の十の砂利俵でした。 六平はクウ、クウ、クウと鳴っ・・・ 宮沢賢治 「とっこべとら子」
・・・ その教室を出て、もう一つの教室へ行くと、そこでは若い生徒ではない、もう四十五十の小父さん小母さんが十人ばかり、むきな顔をして代数の勉強をやっていた。職場で働いているが、こういう人々はもっと自分の技術を高めて、ソヴェト同盟が最も必要とし・・・ 宮本百合子 「明るい工場」
・・・私はワーリャに父さんを持たしてやりたい。そりゃお前さんに真直ぐ云うよ。……だがあれもいい子になって来た。」 輝いた、たのしそうな微笑がグラフィーラの口元に漂った。「――そして私も独りもんじゃ暮したくない。でもね、ミーチャ、私は馬鹿で・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
・・・ お君は、救を求める様に、シパシパの眼をあいたりつぶったりして居ると耳元で、何かが、「お父さんに来てもろうたがいいと云う様に感じた。 お君は、いかにも嬉しそうに、パッとした顔をして、一つ心に合点すると共に、喜びを押え・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
出典:青空文庫