・・・それを知って、私は爾来、唖になった。人と逢いたくなくなった。何も言いたくなくなった。何を人から言われても、外面ただ、にこにこ笑っていることにしたのである。 私は、やさしくなってしまった。 あれから、もう五年経った。そうして今でもなお・・・ 太宰治 「鴎」
・・・四十四年帰朝後工科大学教授に任ぜられ、爾来最後の日まで力学、応用力学、船舶工学等の講座を受持っていた。大正七年三菱研究所の創立に際してその所長となったが、その設立については末広君が主要な中心人物の一人として活動した事は明白な事実である。大正・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・の水はまた爾来千年の歳月を通してこの芭蕉翁の「荒海」とつながっているとも言われる。 もちろん西洋にも荒海とほぼ同義の言葉はある。またその言葉が多数の西洋人にいろいろの連想を呼び出す力をもっていることも事実である。しかしそれらの連想はおそ・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
・・・明治ノ初年ニ至リ官復許シテ之ヲ興ス。爾来今ニ至ツテ日ニ昌ニ月ニ盛ナリ。家家娉ヲ貯ヘ、戸戸婀娜ヲ養フ。紅楼翠閣。一簇ノ暖烟ヲ屯ス。妓院ノ数今七八十戸ニ下ラズト云フ。」 わたくしは先年坊間の一書肆に於て饒歌余譚と題した一冊の写本を獲たことが・・・ 永井荷風 「上野」
・・・の榎本氏を責るはほとんど無稽なるに似たれども、万古不変は人生の心情にして、氏が維新の朝に青雲の志を遂げて富貴得々たりといえども、時に顧みて箱館の旧を思い、当時随行部下の諸士が戦没し負傷したる惨状より、爾来家に残りし父母兄弟が死者の死を悲しむ・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・この事柄は敢て議論ではない、吾等の大教師にして仏の化身たる親鸞僧正がまのあたり肉食を行い爾来わが本願寺は代々これを行っている。日本信者の形容を以てすれば一つの壺の水を他の一つの壺に移すが如くに肉食を継承しているのである。次にまた仏教の創設者・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・云ってみれば、芭蕉の芸術などというものは爾来二百五十有余年、その道の人々によって研究されつづけて来ているようなものである。芭蕉の美の原理としての「こころ」「不易流行」「さび・しおり・ほそみ」等は精密を極めた考証とともにしらべられて、それぞれ・・・ 宮本百合子 「芭蕉について」
・・・作家として、自己の帰趨に迷ったブルジョア作家の一部は、この退潮を目撃して、文芸復興の呼び声を高く挙げ、爾来この二三年間は古典の研究、リアリズムの問題、純粋小説の提唱、能動的・行動的精神の翹望が次々に叫ばれつづけて来たのであるが、文学の実際の・・・ 宮本百合子 「文学における今日の日本的なるもの」
・・・といっている福沢諭吉の言葉は、爾来四十余年を経た今日私たちの現実のなかで、はたしてどのように形をとって来ているであろうか。「新日本国には自から新人の在るあり、我輩は此新人を友にして新友と共に事を与にせんと欲する者なれば」と、敢て保守の人々の・・・ 宮本百合子 「三つの「女大学」」
・・・の文章をかりて云えば「爾来、星霜二十余年」今度社会正義に基くことをモットーとする近衛内閣によって、従来の「蚊文士」が「殿上人」となることとなった。「かかる官府の豹変は平安盛時への復帰とも解釈されるし、また政府の思想的一角が今日、俄かに欧化し・・・ 宮本百合子 「矛盾の一形態としての諸文化組織」
出典:青空文庫