・・・ 襖の傍に突ったったまま、言った。「はあ、いいえ」 私はきょとんとして坐っていた。 女はいきなり私の前へぺったりと坐った。膝を突かれたように思った。この女は近視だろうか、それとも、距離の感覚がまるでないのだろうかと、なんとな・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ よう/\三百の帰った後で、彼は傍で聴いていた長男と顔を見交わして苦笑しながら云った。「……そう、変な奴」 子供も同じように悲しそうな苦笑を浮べて云った。…… 狭い庭の隣りが墓地になっていた。そこの今にも倒れそうになって・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・看護婦は直ぐ病人の傍へ行って脈をはかり、験温などしました。そして、いきなり本当の病状を喋って仕舞いました。この時脈は百三十を越して、時々結滞あり、呼吸は四十でした。すると、病人は直ぐ「看護婦さん、そりゃ間違っているでしょう。お母さん脈」とい・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・しかし片方はただ笑うだけでその話には乗らなかった。 2 生島はその夜晩く自分の間借りしている崖下の家へ帰って来た。彼は戸を開けるとき、それが習慣のなんとも言えない憂鬱を感じた。それは彼がその家の寝ている主婦を思い出す・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・客は微笑みて後を見送りしが、水に臨める縁先に立ち出でて、傍の椅子に身を寄せ掛けぬ。琴の主はなお惜しげもなく美しき声を送れり。 客はさる省の書記官に、奥村辰弥とて売出しの男、はからぬ病に公の暇を乞い、ようやく本に復したる後の身を養わんとて・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・と叫ぶと、志村は自分の傍に来り、「おや君はチョークで書いたね。」「初めてだから全然画にならん、君はチョーク画を誰に習った。」「そら先達東京から帰って来た奥野さんに習った。しかしまだ習いたてだから何にも書けない。」「コロンブス・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・ 二人が話している傍へ、通訳が、顔の平べったい、眉尻の下っている一人の鮮人をつれて這入って来た。阿片の臭いが鼻にプンと来た。鰌髭をはやし、不潔な陋屋の臭いが肉体にしみこんでいる。垢に汚れた老人だ。通訳が、何か、朝鮮語で云って、手を動かし・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ すると路の傍ではあるが、川の方へ「なだれ」になっているところ一体に桑が仕付けてあるその遥に下の方の低いところで、いずれも十三四という女の児が、さすがに辺鄙でも媚き立つ年頃だけに紅いものや青いものが遠くからも見え渡る扮装をして、小籃を片・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・何時でも眼やにの出る片方の眼は、何日も何日も寝ないために赤くたゞれて、何んでもなくても独りで涙がポロポロ出るようになった。 角屋の大きな荒物屋に手伝いに行っていたお安が、兄のことから暇が出て戻ってきた。「お安や、健は何したんだ?」・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・ と鞠子は首を振ったが、間もなく母の傍へ行って、親子でパンを食った。「鞠ちゃんにくれるくれるッて言って、皆な母ちゃんが食って了う」と鞠子は甘えた。 この光景を笑って眺めていた高瀬は自分の方へ来た鞠子に言った。「これ、悪戯しち・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
出典:青空文庫