・・・に単純化するための既成のモラルやヒューマニズムの額縁は、かえって人間冒涜であり、この日常性の額縁をたたきこわすための虚構性や偶然性のロマネスクを、低俗なりとする一刀三拝式私小説の芸術観は、もはや文壇の片隅へ、古き偶像と共に追放さるべきもので・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・自分は片隅のテーブルでひとりでいくつかの強い酒の杯を重ねたが、思いがけなかったその晩の光景は、いっそう自分の気分を滅入らせたのだった。あの鉄枠の中の青年の生活と、こうした華かな、クリスマスの仮面をつけて犢や七面鳥の料理で葡萄酒の杯を挙げてい・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・兼ねて此部屋には戸棚というものが無いからお秀は其衣類を柳行李二個に納めて室の片隅に置ていたのが今は一個も見えない、そして身には浴衣の洗曝を着たままで、別に着更えもない様な様である。六畳の座敷の一畳は階子段に取られて居るから実は五畳敷の一室に・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・と、醤油屋の坊っちゃんは、プラットホームに降りると、すぐ母を見つけて、こう叫びながら、奥さんのいる方へ走りよった。片隅からそれを見ていたおきのは、息子から、こうなれなれしく、呼びかけられたら、どんなに嬉しいだろうと思った。「坊っちゃんお・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・そっとしのび足で店に這入って、片隅の小僧が居る方へ行き、他人が見ている柄を傍から見る。見ているようにしながら、なるべく目立たぬように、番頭に金を払う機会が来るのに注意している。丸文字屋の内儀は邪推深い、剛慾な女だ。番頭や小僧から買うよりも、・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・ 九日、朝四時というに起き出でて手あらい口そそぎ、高き杉の樹梢などは見えわかぬほど霧深き暁の冷やかなるが中を歩みて、寒月子ともども本社に至り階を上りて片隅に扣ゆ。朝々の定まれる業なるべし、神主禰宜ら十人ばかり皆厳かに装束引きつくろいて祝・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 旅窶れのした書生体の男が自分の前に立った。片隅へ身を寄せて、上り框のところへ手をつき乍ら、何か低い声で物を言出した時は、自分は直にその男の用事を看て取った。聞いて見ると越後の方から出て来たもので、都にある親戚をたよりに尋ねて行くという・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・正木未亡人も部屋の片隅に坐って、頭を垂れていた。塾の同窓の生徒は狭い庭に傘をさしかけ、縁側に腰掛けなどしていた。 亡くなった青年が耶蘇信者であったということを、高瀬はその日初めて知った。黒い布を掛け、青い十字架をつけ、牡丹の造花を載せた・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ そうして私はその時、一冊の同人雑誌の片隅から井伏さんの作品を発見して、坐っておられないくらいに興奮し、「こんなのが、いいんです」と言って、兄に読ませたが、兄は浮かぬ顔をして、何だかぼやけた事をムニャムニャ言っただけだった。しかし、私は・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・ 男のひとがさきに、それから女のひとが、夫の部屋の六畳間にはいり、腐りかけているような畳、破れほうだいの障子、落ちかけている壁、紙がはがれて中の骨が露出している襖、片隅に机と本箱、それもからっぽの本箱、そのような荒涼たる部屋の風景に接し・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
出典:青空文庫