・・・男 お前は物心がつくと死んでいたのも同じ事だ。今まで太陽を仰ぐことが出来たのは己の慈悲だと思うがいい。B それは己ばかりではない。生まれる時に死を負って来るのはすべての人間の運命だ。男 己はそんな意味でそう云ったのではない。お前・・・ 芥川竜之介 「青年と死」
・・・土百姓同様の貧乏士族の家に生まれて、生まれるとから貧乏には慣れている。物心のついた時には父は遠島になっていて母ばかりの暮らしだったので、十二の時にもう元服して、お米倉の米合を書いて母と子二人が食いつないだもんだった。それに俺しには道楽という・・・ 有島武郎 「親子」
・・・マルクスはその生命観において、物心の区別を知らないほどに全的要求を持った人であったということができると私は思う。私はマルクスの唯物史観をかくのごとく解するものである。 ところが資本主義の経済生活は、漸次に種子をその土壌から切り放すような・・・ 有島武郎 「想片」
・・・ 金助がお君に、お前は、と訊くと、お君は、おそらく物心ついてからの口癖であるらしく、表情一つ動かさず、しいていうならば、綺麗な眼の玉をくるりくるりと廻した可愛い表情で、「私か、私はどないでもよろしおま」 あくる日、金助が軽部を訪・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ 新助は仲仕を働き、丹造もまた物心つくといきなり父の挽く荷車の後押しをさせられたが、新助はある時何思ったか、丹造に、祖先の満右衛門のことを語ってきかせた。 兄姉の誰もがまだ知らなかったこの話を、とくにえらんで末子の自分に語ってくれた・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・いつとはなく、物心もつきました。彼女の身内を貫いて、丁度満月の時、海の真中からゆらぎ出す潮のように、新たな、云うに云われない感覚が、流れました。スバーは、我と我身を顧みました。自分に問をかけても見ました、が、合点の行く答えは、何処からも来ま・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・ぼくの愛しているお袋は男に脅迫されて箱根に駈落しました。お袋は新子と名を改めて復帰致しました。ぼくの物心ついた頃、親爺は貧乏官吏から一先ず息をつけていたのですが、肺病になり、一家を挙げて鎌倉に移りました。父はその昔、一世を驚倒せしめた、歴史・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・私なぞも物心地が附いてからは、日がな一日、婆様の老松やら浅間やらの咽び泣くような哀調のなかにうっとりしているときがままございました程で、世間様から隠居芸者とはやされ、婆様御自身もそれをお耳にしては美しくお笑いになって居られたようでございまし・・・ 太宰治 「葉」
・・・しゅん子なんて、物心地のつかないうちに、もう東京へ来て山形の見事な雪景色を知らないから、こんな東京のちゃちな雪景色を見て騒いでいやがる。おれの眼なんかは、もっと見事な雪景色を、百倍も千倍もいやになるくらいどっさり見て来ているんだからね、何と・・・ 太宰治 「雪の夜の話」
・・・しかしまだ物心もつかないうちに本国に帰ってしまったので、日本の記憶と云っては夢ほどにも残っていないが、ただ生れた土地と聞くだけで日本の国土に対するゼエンズフトを懐いている。そしていつか一度日本人というものに会ってみたいと云っていた。それを知・・・ 寺田寅彦 「異郷」
出典:青空文庫