・・・恐らく気が狂うか全くの虚脱状態になってしまうだろう。 起きなければ、起きなければと思いながらも一本と吸っている時の私は、自分の人生を無駄に浪費しているわけだが、しかしそのような浪費のずるずるべったりの習慣の怖しさをふと意識した瞬間ほど、・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・『そうよ懐が寒くなると血がみんな頭へ上って、それで気が狂うんだろうよ』と言ったのは長屋の者らしい。『うまいことをいってらア』と江藤はつぶやいた。『おいらは毎晩逆上せる薬を四合瓶へ一本ずつ升屋から買って飲むが一向鉄道往生をやらかす・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・其所で疳は益々起る、自暴にはなる、酒量は急に増す、気は益々狂う、真に言うも気の毒な浅ましい有様となられたのである、と拙者は信ずる。 現に拙者が貴所の希望に就き先生を訪うた日などは、先生の梅子嬢を罵る大声が門の外まで聞えた位で、拙者は機会・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・奔馬のように狂う恋情を鋭い知性や高い意志で抑えねばならぬ。私の場合ではそれほどでもない女性に、目くもって勝手に幻影を描いて、それまで磨いてきた哲学的知性もどこへやら、一人相撲をとって、独り大負傷をしたようなものだ。これは知性上から見て恥であ・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・龍介は歩きながら、Tがいなかったら、また今晩は変に調子が狂うかもしれないと思った。そう思うと何んだかいないかもしれない気がしてきた。が図書館の入口の電燈が見え始めた時彼は立ち止まった。なぜ自分はこう友だちのところへ行くのか、と考えた。友だち・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・あんなごまかしを言っているうちは、おさめない、と狂うくらいに逆上し、そうしてただもう口惜しくて、涙が出るのである。 けれども、やはり私は政治運動には興味が無い。自分の性格がそれに向かないばかりか、それに依って自分が救われるとも思っていな・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・ けれども、奥さまが私に口惜しそうな顔をお見せになったのは、その時くらいのもので、あとはまた何事も無かったように、お客に派手なあいそ笑いをしては、客間とお勝手のあいだを走り狂うのでした。 おからだがいよいよお弱りになっていらっしゃる・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・あまりに、キヌ子にむだ使いされたので、狂うような気持になっているのかも知れない。色慾のつつしむべきも、さる事ながら、人間あんまり金銭に意地汚くこだわり、モトを取る事ばかりあせっていても、これもまた、結果がどうもよくないようだ。 田島は、・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・ しかし、あの婆さんの教授は、私にこんな気が狂うくらいの大恐怖を与え、そうして私のさなきだに細く弱っていた詩の生命を完全にぷつっと絶ってしまった事にはたぶんお気附きなさる事もなく、いやいや、お気附きになったら、かえってお得意そうにうっと・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・近い岬の岩間を走る波は白い鬣を振り乱して狂う銀毛の獅子のようである。暗緑色に濁った濤は砂浜を洗うて打ち上がった藻草をもみ砕こうとする。夥しく上がった海月が五色の真砂の上に光っているのは美しい。 寛げた寝衣の胸に吹き入るしぶきに身顫いをし・・・ 寺田寅彦 「嵐」
出典:青空文庫