・・・家康は古千屋の狂乱の中にもいつか人生の彼に教えた、何ごとにも表裏のあるという事実を感じない訣には行かなかった。この推測は今度も七十歳を越した彼の経験に合していた。……「さもあろう。」「あの女はいかがいたしましょう?」「善いわ、や・・・ 芥川竜之介 「古千屋」
・・・と云う、御狂乱の一段を御話したのです。俊寛様は御珍しそうに、その話を聞いていらっしゃいましたが、まだ船の見える間は、手招ぎをなすっていらしったと云う、今では名高い御話をすると、「それは満更嘘ではない。何度もおれは手招ぎをした。」と、素直・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・けれども、未練と、執着と、愚癡と、卑劣と、悪趣と、怨念と、もっと直截に申せば、狂乱があったのです。 狂気が。」 と吻と息して、……「汽車の室内で隣合って一目見た、早やたちまち、次か、二ツ目か、少くともその次の駅では、人妻におなり・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・お雪さんが、抱いたり、擦ったり、半狂乱でいる処へ、右の、ばらりざんと敗北した落武者が這込んで来た始末で……その悲惨さといったらありません。 食あたりだ。医師のお父さんが、診察をしたばかりで、薮だからどうにも出来ない。あくる朝なくなりまし・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・この夜、猿芝居が終って賓客が散じた頃、鹿鳴館の方角から若い美くしい洋装の貴夫人が帽子も被らず靴も穿かず、髪をオドロと振乱した半狂乱の体でバタバタと駈けて来て、折から日比谷の原の端れに客待ちしていた俥を呼留め、飛乗りざまに幌を深く卸させて神田・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・びっくりしたのと、無理に歩いて来たのとで、きゅうに産気づいて苦しんでいる妊婦もあり、だれよだれよと半狂乱で家族の人をさがしまわっているものがあるなどその混乱といたましさとは、じっさい想像にあまるくらいでした。多くの人は火の中をくぐって来ての・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・いや美しくはないけれど、でも、ひとりで生き抜こうとしている若い女性は、あんな下らない芸術家に恋々とぶら下り、私に半狂乱の決闘状など突きつける女よりは、きっと美しいに相違ない。そうだ、それは瞳の問題だ。いやもう、これはなかなか大変な奢りの気持・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・十年前だったら、私はゆうべもう半狂乱で脱走してしまっていたでしょう。自殺したかも知れません。外八文字は、私がお詫びを言ったら、不機嫌そうに眉をひそめてちょっと首肯きました。たいへん、もったいぶっています。私は、もう此の女とは一言も口をきくま・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・私は、五年まえに、半狂乱の一期間を持ったことがある。病気がなおって病院を出たら、私は焼野原にひとりぽつんと立っていた。何も無いのだ。文字どおり着のみ着のままである。在るものは、不義理な借財だけである。かみなりに家を焼かれて瓜の花。そんな古人・・・ 太宰治 「鴎」
・・・ごっとん、ごっとん、のろすぎる電車にゆられながら、暗鬱でもない、荒涼でもない、孤独の極でもない、智慧の果でもない、狂乱でもない、阿呆感でもない、号泣でもない、悶悶でもない、厳粛でもない、恐怖でもない、刑罰でもない、憤怒でもない、諦観でもない・・・ 太宰治 「狂言の神」
出典:青空文庫