・・・と笹川は狼狽して言った。「そんなこと言われては、僕は困っちまうよ。君はどうしても出席してくれたまえ。それでないと僕が困っちまうよ。とにかく出席してくれたまえ、……けっして悪いことにはならないから。とにかく君は出席してくれなくちゃ困るよ」・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・酒を飲んでいた私は、この突然な詰問に会って、おおいに狼狽した。「あれは、けっして君のことを書いたというわけではないじゃないか。あんな事実なんか、全然君にありゃしないじゃないか。君はKに僕と絶交すると言ったそうだが、なぜそんなに君が怒った・・・ 葛西善蔵 「遊動円木」
・・・ というような話になって来たので吉田は一時に狼狽してしまった。吉田は何よりも自分の病気がそんなにも大っぴらに話されるほど人々に知られているのかと思うと今更のように驚かないではいられないのだったが、しかし考えてみれば勿論それは無理のない話・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・貴嬢がこの時の狼狽のさまこそおかしけれ、君よさまでには候わず宝丹には及ばずと訴うるようにのたまいし声はしわがれて呼吸するも苦しげにおわしぬ。 二郎やむを得ず宝丹取りだして、われに渡しければわれ直ちに薬を掬いて貴嬢が前に差しいだしぬ、この・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 翁は狼狽てて懐中よりまっち取りだし、一摺りすれば一間のうちにわかに明くなりつ、人らしきもの見えず、しばししてまた暗し。陰森の気床下より起こりて翁が懐に入りぬ。手早く豆洋燈に火を移しあたりを見廻わすまなざし鈍く、耳そばだてて「我子よ」と・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・こうなると自分は狼狽えざるを得ない。水を持て来てやりなどすると漸くのことで詳わしく事条が解った。 お政の苦心は十分母の満足を得なかったのである。折角の帯も三円にしかならず、仕方なしにお政は自分の出て行った後でこの三円を母に渡すと、母は大・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・(或曰、くまは韓語、或曰、くまは暈ただ狼という文字は悪きかたにのみ用いらるるならいにて、豺狼、虎狼、狼声、狼毒、狼狠、狼顧、中山狼、狼、狼貪、狼竄、狼藉、狼戻、狼狽、狼疾、狼煙など、めでたきは一つもなき唐山のためし、いとおかし。いわゆる御狗・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・私は気弱く狼狽して、いや何処ということもないんだけど、君たちも、行かないかね、と心にも無い勧誘がふいと口から辷り出て、それからは騎虎の勢で、僕にね、五十円あるんだ、故郷の姉から貰ったのさ、これから、みんなで旅行に出ようよ、なに、仕度なんか要・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・、これこそは人間の骨だ、人間は昔、こんな醜い姿をして這って歩いていたのだ、恥を知れ、などと言って学界の紳士たちをおどかしたので、その石は大変有名になりまして、貴婦人はこれを憎み、醜男は喝采し、宗教家は狼狽し、牛太郎は肯定し、捨てて置かれぬ一・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・それから上野が斬られて犬のようにころがるだけでなく、もう少し恐怖と狼狽とを示す簡潔で有力な幾コマかをフラッシュで見せたい。そうしないとせっかくのクライマックスが少し弱すぎるような気がする。 第二のクライマックスは赤穂城内で血盟の後復讐の・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
出典:青空文庫