・・・ もうこうなってはいくら我慢しても、睡らずにいることは出来ません。現に目の前の香炉の火や、印度人の婆さんの姿でさえ、気味の悪い夢が薄れるように、見る見る消え失せてしまうのです。「アグニの神、アグニの神、どうか私の申すことを御聞き入れ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・その中で彼れは快い夢に入ったり、面白い現に出たりした。 仁右衛門はふと熟睡から破られて眼をさました。その眼にはすぐ川森爺さんの真面目くさった一徹な顔が写った。仁右衛門の軽い気分にはその顔が如何にもおかしかったので、彼れは起き上りながら声・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・立花は涙も出ず、声も出ず、いうまでもないが、幾年月、寝ても覚ても、夢に、現に、くりかえしくりかえしいかに考えても、また逢う時にいい出づべき言を未だ知らずにいたから。 さりながら、さりながら、「立花さん、これが貴下の望じゃないの、天下・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ かねて信心する養安寺村の蛇王権現にお詣りをして、帰りに北の幸谷なるお千代の里へ廻り、晩くなれば里に一宿してくるというに、お千代の計らいがあるのである。 その日は朝も早めに起き、二人して朝の事一通りを片づけ、互いに髪を結い合う。おと・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ その夕がた、もう、吉弥も帰っているだろうと思い、現に必要な物を入れてある革鞄を浅草へ取りに行った。一つは、かの女の様子を探るつもりであった。 雷門で電車を下り、公園を抜けて、千束町、十二階の裏手に当る近所を、言われていた通りに探す・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ちょうどこの百七十七回の中途で文字がシドロモドロとなって何としても自ら書く事が出来なくなったという原稿は、現に早稲田大学の図書館に遺存してこの文豪の悲痛な消息を物語っておる。扇谷定正が水軍全滅し僅かに身を以て遁れてもなお陸上で追い詰められ、・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・それでドウも二宮金次郎先生には私は現に負うところが実に多い。二宮金次郎氏の事業はあまり日本にひろまってはおらぬ。それで彼のなした事業はことごとくこれを纏めてみましたならば、二十ヵ村か三十ヵ村の人民を救っただけに止まっていると考えます。しかし・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ なぜなら、たとえ、人間の力では、そこへは達しなかったけれど、自然の力は、いつも自由であったからです。現に、数年前のこと、ちょうど春先であったが、轟然として、なだれがしたときに、幹の半分はさかれて、雪といっしょに谷底へ落ちてしまったので・・・ 小川未明 「しんぱくの話」
・・・ひびへ漆を入れた茶器を現に二人が讃めたことがあったのです。 紅潮した身体には細い血管までがうっすら膨れあがっていました。両腕を屈伸させてぐりぐりを二の腕や肩につけて見ました。鏡のなかの私は私自身よりも健康でした。私は顔を先程したようにお・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・朝田もお構いなく、「現に今日も、斯うだ、僕が縁とは何ぞやとの問に何と答えたものだろうと聞くと、先生、この円と心得て」と畳の上に指先で○を書き、「円の定義を平気な顔で暗誦したものだ、君、斯ういう先生と約一ヶ月半も僕は膳を並べて酒を呑ん・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
出典:青空文庫