・・・ああ云う大嗔恚を起すようでは、現世利益はともかくも、後生往生は覚束ないものじゃ。――が、その内に困まった事には、少将もいつか康頼と一しょに、神信心を始めたではないか? それも熊野とか王子とか、由緒のある神を拝むのではない。この島の火山には鎮・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・同時に又現世を地獄にする或意志の一例にも違いなかった。しかし、――僕は又苦しみに陥るのを恐れ、丁度珈琲の来たのを幸い、「メリメエの書簡集」を読みはじめた、彼はこの書簡集の中にも彼の小説の中のように鋭いアフォリズムを閃かせていた。それ等のアフ・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ この血だらけの魚の現世の状に似ず、梅雨の日暮の森に掛って、青瑪瑙を畳んで高い、石段下を、横に、漁夫と魚で一列になった。 すぐここには見えない、木の鳥居は、海から吹抜けの風を厭ってか、窪地でたちまち氾濫れるらしい水場のせいか、一条や・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 一目見て、幼い織次はこの現世にない姿を見ながら、驚きもせず、しかし、とぼんとして小さく立った。 その小児に振向けた、真白な気高い顔が、雪のように、颯と消える、とキリキリキリ――と台所を六角に井桁で仕切った、内井戸の轆轤が鳴った。が・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 私は思うに、これは多分、この現世以外に、一つの別世界というような物があって、其処には例の魔だの天狗などという奴が居る、が偶々その連中が、吾々人間の出入する道を通った時分に、人間の眼に映ずる。それは恰も、彗星が出るような具合に、往々にし・・・ 泉鏡花 「一寸怪」
・・・せめて、朝に晩に、この身体を折檻されて、拷問苛責の苦を受けましたら、何ほどかの罪滅しになりましょうと、それも、はい、後の世の地獄は恐れませぬ。現世の心の苦しみが堪えられませぬで、不断常住、その事ばかり望んではおりますだが、木賃宿の同宿や、堂・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・平生見つけた水の色ではない、予はいよいよ現世を遠ざかりつつゆくような心持ちになった。「じいさん、この湖水の水は黒いねー、どうもほかの水とちがうじゃないか」「ヘイ、この海は澄んでも底がめいませんでござります。ヘイ、鯉も鮒もおります」・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・、是れ約束である、現世に於ける貧は来世に於ける富を以て報いらるべしとのことである。 哀む者は福なり、其故如何? 将さに現われんとする天国に於て其人は安慰を得べければ也とのことである。 柔和なる者は福なり、其人はキリストが再び世に臨り・・・ 内村鑑三 「聖書の読方」
・・・この時代の人は大概現世祈祷を事とする堕落僧の言を無批判に頂戴し、将門が乱を起しても護摩を焚いて祈り伏せるつもりでいた位であるし、感情の絃は蜘蛛の糸ほどに細くなっていたので、あらゆる妄信にへばりついて、そして虚礼と文飾と淫乱とに辛くも活きてい・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・来世の迷信から、その妻子・眷属にわかれて、ひとり死出の山、三途の川をさすらい行く心ぼそさをおそれるのもある。現世の歓楽・功名・権勢、さては財産をうちすてねばならぬのこり惜しさの妄執にあるのもある。その計画し、もしくは着手した事業を完成せず、・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
出典:青空文庫