・・・死ぬのでなくして、病疾其他の原因から夭折し、当然享くべく味うべき生を、享け得ず味わい得ざるを恐るるのである、来世の迷信から其妻子・眷属に別れて独り死出の山、三途の川を漂泊い行く心細さを恐るるのもある、現世の歓楽・功名・権勢、扨は財産を打棄て・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・外面の瀟洒と典雅だけを現世の唯一の「いのち」として、ひそかに信仰しつづけるのではないでしょうか。昨年、彼が借衣までして恋人に逢いに行ったという、そのときの彼の自嘲の川柳を二つ三つ左記して、この恐るべきお洒落童子の、ほんのあらましの短い紹介文・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・女性にとって、現世の恋情が、こんなにも焼き焦げる程ひとすじなものとは、とても考えられぬ事でした。命も要らぬ、神も要らぬ、ただ、ひとりの男に対する恋情の完成だけを祈って、半狂乱で生きている女の姿を、彼は、いまはじめて明瞭に知る事が出来たのでし・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・私は今の、此の、現世の喜びだけを信じる。次の世の審判など、私は少しも怖れていない。あの人は、私の此の無報酬の、純粋の愛情を、どうして受け取って下さらぬのか。ああ、あの人を殺して下さい。旦那さま。私はあの人の居所を知って居ります。御案内申し上・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・理想主義者は、悲しい哉、現世に於いてその言動、やや不審、滑稽の感をさえ隣人たちに与えている場合が、多いようである。謂わば、かのドン・キホオテである。あの人は、いまでは、全然、馬鹿の代名詞である。けれども彼が果して馬鹿であるか、どうかは、それ・・・ 太宰治 「デカダン抗議」
・・・犀などがだんだんに人間に狩り尽くされて絶滅しかけているという事実はたしかに彼らが現世界に生存するに不利益な条件を備えているためであろう。 過去のある時代には犀のようなものが時を得顔に横行したこともあったのである。その時代の環境のいかなる・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・もっと言葉を変えて言えば、すべての事がらは、現世で確率の大きいと思われるほうから確率の僅少なほうへと進行するから不思議でないわけにはゆかないのである。たとえばわれわれの世界では桶の底に入れた一升の米の上層に一升の小豆を入れて、それを手でかき・・・ 寺田寅彦 「映画の世界像」
・・・いくらそんな不都合なことはいけないと言っても、どうしてもだれか征伐に行くのが現世の事実である。その証拠は、どの歴史の書物でもあけて二三ページ読めばすぐに見つかるであろう。 おとぎ話というものは、そういう人間世界の事実と方則を教える科学的・・・ 寺田寅彦 「さるかに合戦と桃太郎」
・・・この悪臭によって自分はこの現世から突きはなされてただ一人未知の不安な世界に追いやられるような心細さを感ずるのであった。もちろんその当時そんな自覚などあろうはずはなかったが、しかし名状のできないこの臭気に堪えかねて、とうとう脳貧血を起こしたの・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・ なお余論として以上二種の文芸の特性についてちょっと比較してみますと、浪漫派は人の気を引立てるような感激性の分子に富んでいるには違ないが、どうも現世現在を飛び離れているの憾みを免かれない。妄りに理想界の出来事を点綴したような傾があるかも・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
出典:青空文庫